メッカ
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クルアーンでは鳥が運んできた石のつぶてに当たったヒムヤル兵に疱瘡ができ、疫病が蔓延したとされており、この描写からヒムヤル軍に天然痘が蔓延したのではないかと推測されている[19]。このとき、メッカのクライシュ族はフザーア族と同盟を組んでヒムヤル軍に対抗したとされる[20]
イスラームの誕生ヒラー山。ムハンマドが大天使ジブリールより神の啓示を受けた場所である

メッカ生まれでクライシュ族に属していたムハンマドは、610年に市の北東のヒラー山で神からの啓示を受けイスラム教を創始した。しかしクライシュ族からの迫害を受け、 622年にヤスリブ(現在のマディーナ)へムハンマドは逃れる。これをヒジュラといい、イスラム暦はここから起算される。マディーナ滞在時には、のちにメッカを聖地とするさまざまな決定が下されている。624年には礼拝の方向がエルサレムからメッカのカアバ神殿へと変更され、625年には巡礼がイスラム教徒の義務とされた[24]。この間、バドルの戦いやウフドの戦いなどを経て、イスラム教徒は軍事的に優勢となっていった。628年には一時休戦協定が結ばれて初のメッカ巡礼が行われたものの、メッカの非イスラム教徒の攻撃によって完全なものとはならなかった。しかしその後もイスラムの勢力は成長を続け、630年にはメッカはムハンマドに降伏し、メッカを支配下におさめたムハンマドはカアバ神殿よりすべての偶像を取り除いた。これ以降メッカは聖地として尊ばれている。632年に行われた第4回巡礼のときに巡礼の方法や聖域の範囲などが定められ、現在の巡礼の祖形となった[25]
聖地

632年のムハンマド没後、メッカは宗教上の聖地ではあり続けたものの政治上の実権は失っていった。ウマルは政治の中枢をメディナに置き、さらに第4代正統カリフのアリーが首都をイラククーファに移転すると、メッカやアラビア半島は次第に政治の中枢から離れていき、10世紀ごろからはムハンマドの子孫であり、ハサン・イブン・アリーの後裔(シャリーフ)であるハーシム家が半ば独立しながら外部の有力国家の保護を受けるようになっていった。13世紀にはハーシム家は外部から総督位を受けることでメッカ太守の地位に着くようになった。アッバース朝中期まではメッカの支配権はカリフが握っていたものの、10世紀末にはエジプトファーティマ朝がメッカとメディナの支配権を握った。さらにその後もアイユーブ朝マムルーク朝といったエジプト王朝のメッカ支配は続いた。1454年鄭和が遠洋航海した際、その分隊がメッカ(天方)に寄航している。第一次サウード王国の勢力拡大

1517年、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がメッカの支配権を握り、スンナ派イスラム教徒の盟主となった。その後はオスマン帝国の支配が続いていたが、1802年ナジュドの豪族サウード家がワッハーブ派を奉じて建国した第一次サウード王国がメッカとマディーナを占領し、当時メッカにあった聖者の廟などを破壊した。第一次サウード王国はまた、エジプトやシリアからやってくる巡礼団が華美に流れ堕落しているとして攻撃し、シリアからのものは入域さえさせなかった。一方、他地域からの巡礼団は歓迎され、この時期のメッカの厳格な戒律を守る雰囲気に影響されて、スマトラ島南部のミナンカバウ地方でパドリ戦争と呼ばれる宗教戦争が起きる[26]など、イスラム圏各地に影響を与えた。しかしイスラムの盟主をもって任じるオスマン帝国の命を受けたエジプト総督ムハンマド・アリー1813年にメッカを攻略しヒジャーズをエジプトの治下に置いた。しかし1840年に第二次エジプト・トルコ戦争の敗北によってこれを放棄させられ、再びメッカはオスマン帝国領となった。19世紀中期以降は鉄道汽船といった新しい交通機関によって旅行期間が大幅に短縮され、これによって巡礼者の数は増加した。
サウジアラビア時代1910年のメッカ地図

1908年青年トルコ人革命後、メッカのシャリーフに任命されたハーシム家フサイン・イブン・アリーは半独立の姿勢をとるようになり、1916年には独立してヒジャーズ王国を建国したものの、ナジュドのスルタンであるサウード家のイブン・サウードに敗れてメッカは占領され、ヒジャーズ王国はナジュドに併合されてナジュド及びヒジャーズ王国の一部とされ、1931年にはこれを改称したサウジアラビア王国の一部となった。石油の富を得た1940年代以降、聖地の守護者としてサウジアラビア政府はメッカの整備を続け、都市機能は整備され町は拡大を続けた。

1979年11月20日、マフディー(救世主)を頂く武装グループがマスジド・ハラームを占拠。サウジ当局により2週間後に鎮圧されたが、鎮圧部隊側の死者は127人、武装勢力側の死者は177人という惨事となり、首謀者らは公開斬首刑に処せられた。(アル=ハラム・モスク占拠事件

2012年、7棟の超高層建築物群からなるアブラージュ・アル・ベイト・タワーズが開業した。ホテル棟はサウジアラビアでは最も高い建築物であり、尖塔を含めた高さは601mである。
行政

メッカはサウジアラビア政府によって任命されたメッカ市長をトップとするメッカ市政府と、市政府によって選出された14人の評議員からなる市政評議会によって治められている。

メッカは商都ジェッダをも含むメッカ州の州都である。2000年から2007年に亡くなるまで、メッカ州知事はアブドゥルマジード・ビン・アブドゥルアズィーズ王子が務めていた[27]。2007年5月16日、メッカ州の新知事にハーリド・アル=ファイサル王子が就任した[28]

1920年代に現在のサウジアラビア全土が統合されると、メッカには内閣府が置かれ、政治の中心となっていたが、1970年代にそれまで首都機能の整っていなかった首都リヤドに政府機能が集中するようになり、メッカの政府機関もリヤドへと移動した[29]
経済

メッカの経済は巡礼に大きく依存してきた。巡礼はメッカ経済において唯一の産業というわけではないが、巡礼からの収入はメッカのみならずヒジャーズやネジドの経済に大きな影響を与えてきた。巡礼からの収入にはいくつかの方法があり、かつては巡礼には巡礼税が課されていた。この税は1972年までにすべて廃止された。しかし巡礼からの収入の多くは、巡礼に提供する各種サービスから生み出されるものである。たとえば、サウジアラビアの国営航空であるサウジアラビア航空は巡礼からの収入が総収入の12%を占める。陸路でメッカに来た巡礼客も、食事やホテル、みやげ物などのサービスの購入によって莫大な金額をメッカに落としていく。メッカにはムタッウィフと呼ばれる巡礼専門の旅行業者が古くより存在し、巡礼客の行動一切を取り仕切る。ムタッウィフは地元に古くから住む一族が生業としている。1930年代に、ムタッウィフたちはサウジアラビア初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードによって6つの会社に統合させられた[30]

サウジアラビア政府は聖地の管理者として巡礼客に多額の出費を行い、年に5,000万ドルもの支出を行っているが、メッカが受け取る収入は1億ドルにものぼる。ほかにもメッカにはいくらかの産業や工場があるものの、石油を中心とする経済となっているサウジアラビアにおいて、メッカはもはや経済で重要な地位を占めてはいない[31]。繊維製品や家具、調理用具製造などの産業があるものの、メッカの経済の主力はサービス業である。

20世紀後半から21世紀にかけて、航空運賃の低廉化によりジェット機で巡礼に来る客が増加し、巡礼ツアー商品や旅行パックの販売によって巡礼が行いやすくなったことも巡礼客増加に拍車をかけた。巡礼の時期の顧客増に対応できるようにされたホテルや商店の管理のために、巡礼期のみならず通年で雇用されるサウジ人は数千人にのぼる。こういった雇用の増加により、住宅やサービス業の需要が増加している。市の周辺には高速道路が張り巡らされ、ショッピングモールやホテル、高層ビルが林立している[32]
文化マスジド・ハラームと、奥のアブラージュ・アル・ベイト・タワーズ。近代的なビル群はマスジド・ハラームよりも高い。

メッカの文化は毎年到着する多くの巡礼者の影響を受け、非常に豊かなものとなっている。地元で話される言語はアラビア語のヒジャーズ方言であるが、世界各国からの巡礼者によって世界中のあらゆる言語が話されている。古来より世界各地の文化が混交するメッカにおいては、19世紀初頭のパドリ戦争(先述)のように、あらたなイスラームの潮流や新思想などが持ちよられ、持ち帰られた。

メッカでもっとも人気のあるスポーツはサッカーであり、1945年に設立されたサウジアラビアでもっとも古いプロサッカークラブのひとつであるアル・ワフダ・メッカがこの街に本拠を置いている。同チームは3万8,000人が収容できるメッカ最大のスタジアムである[33]キング・アブドゥルアズィーズ・スタジアムをホームとしている。


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