こうしてルーズベルト大統領の承認を得て、戦時中も試合は継続された。スタン・ミュージアル、テッド・ウィリアムズ、ジョー・ディマジオなどのスターたちのキャリアは中断されたが、チームは引き続きMLBでプレーすることになった[38]。しかし、各球団とも選手の出征が相次いだことによる深刻な選手不足は変わらず、1945年のMLBオールスターゲームは中止となった。
「カラーライン」の打破詳細は「ニグロリーグ」を参照ジャッキー・ロビンソン (1954年)
1880年代にはメジャーリーグにも黒人選手が存在したが、選手、リーグの激しい反発により、短期間で姿を消す事となった。それ以降、黒人選手との契約を禁止する規則は存在しなかったものの、1940年代半ばまで黒人選手はメジャーリーグでプレイできなかった。ただし同じ有色人種でも、肌の黒くないヒスパニック系やネイティヴアメリカンの選手はプレイできた[39]。
1945年、ブルックリン・ドジャースの社長兼ゼネラルマネジャーであるブランチ・リッキーは、プロの野球リーグに黒人野球選手を本格的に入団させようと動き出した。彼はニグロリーグの有望選手のリストの中からジャッキー・ロビンソンを選んだ。リッキーはロビンソンに、彼自身に向けられる差別に「やり返さない勇気を持つ」事を求め、月額600ドルの契約を結ぶ事に同意した。ロビンソンは、ドジャースのファームクラブであるモントリオール・ロイヤルズに1946年シーズンから参加、1880年代から続くインターナショナルリーグにおいて57年ぶりの黒人野球選手となった[40]。
翌年、ドジャースはロビンソンをメジャーリーグに呼び寄せた。1947年4月15日、ロビンソンはエベッツ・フィールドで14,000人以上の黒人を含む26,623人の観衆の中メジャーリーグデビューを果たした。黒人野球のファンは、それまでのニグロリーグのチームの観戦を放棄し、ドジャースの試合を見るためにブルックリンに殺到した。ロビンソンの売り出しには、新聞や白人メジャーリーグの選手の大多数が反対であった。監督のレオ・ドローチャーはチームに「私は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと、ヤンキースのストライプが好きでも構わない。自分はこのチームの監督だ。チームに必要な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいるならトレードで出て行くことになるだろう。」と語った[41]。
対戦相手のフィラデルフィア・フィリーズはドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告。それに対し、ハッピー・チャンドラーコミッショナーはドジャースを支持し、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦を拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った。ロビンソンは何人かの選手から励ましを受け、チームメイトのピー・ウィー・リースはチームメイトの前で真っ先にロビンソンと握手をして見せた。球場でロビンソンが誹謗中傷を受けていると、リースは守備時にロビンソンに歩み寄り、黙って肩を組んで観客席を見回した。この光景に観客の誹謗中傷は徐々に減っていった。ロビンソンはどんなときも常に紳士的に振る舞い、シーズン終了時にはチームメイトや報道陣から受け入れられるようになった[42]。ロビンソンは、この年から制定された最優秀新人選手賞を受賞した[43]。
3か月も経たないうちに、ラリー・ドビーがクリーブランド・インディアンスと契約し、アメリカンリーグも黒人選手を受け入れると[44]、翌年、他の多くの黒人選手がメジャーリーグに入った。サッチェル・ペイジはインディアンスと契約し、ドジャースはスター捕手だったロイ・キャンパネラとドン・ニューカムを追加した。ドン・ニューカムは後にサイ・ヤング賞を受賞した[45]。 1952年、MLBは女性選手との契約締結を禁止した。その禁止条項は1992年に解除されたが、その後も女性選手との契約は現在まで存在しない[46]。 1901年から1953年までの間、2つのメジャーリーグは8チームのリーグで構成されていた。16チームはアメリカ北東部と中西部の10都市に集中していた。ニューヨークに3チーム、ボストン、シカゴ、フィラデルフィア、セントルイスには各2チーム存在していた。当時はセントルイスが最南端と最西端だった。最も距離の遠いボストンからセントルイスへの距離は、鉄道で約24時間の距離であった。 1953年、低迷していたボストン・ブレーブスが本拠地をミルウォーキーへ移転し、観客動員が28万人から182万人へ増加。以後、本拠地の移転が起きることに。1954年、セントルイス・ブラウンズはボルチモアに移転。1955年、フィラデルフィア・アスレチックスはカンザスシティへ移転した。 野球専門家の間で、「この頃の初期拡大期に最も影響力があったオーナー」と考えられているブルックリン・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーは[47]、1958年シーズンの前に、彼はブルックリン・ドジャースを西海岸にあるロサンゼルスに移した[48]。
女性選手との契約の禁止
編成と拡張ドジャー・スタジアム (2007年)エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム(2019年)