メキシコ
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2018年メキシコ総選挙では、アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールが大統領に当選した[8]
大統領

国家元首大統領である。大統領は国民の直接選挙によって選出され、任期は6年で再選は禁止されている。

大統領の権限は大きく、行政府の長も兼ねており、憲法では三権分立が規定されているものの、事実上司法府も統制下にあり、イギリスの新聞『エコノミスト』傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットからは「混合政治体制」と評されている(民主主義指数の項目も参照)。また、軍部も大統領下でのシビリアンコントロールが制度的に確立している。

大統領は、行政各省の大臣を指名する。ただし、司法相のみは上院の承認が必要である。各大臣は大統領直属の地位にあり、大統領に対し責任を負うのみで、議会や国民に対して責任は負わない。副大統領や首相などの次席の役職はなく、大統領が死亡などで欠ける場合は、議会が暫定大統領を選出する。2019年より大統領を国民投票によって解任できる制度が導入され、大統領への反対票が過半数かつ投票率が有権者の40%を超えた場合は解任できる[9][10]。「メキシコの大統領」も参照
立法

連邦議会両院制(二院制)。上院(元老院)は全128議席で、そのうち4分の3にあたる96議席が連邦区と州の代表(各3議席)、残りが全国区の代表である。それぞれ比例代表制で選出され、任期は6年。下院(代議院)は全500議席で、300議席は小選挙区制、200議席は比例代表制。任期は3年。両院とも連続再選は禁止されている。
行政詳細は「メキシコの行政機関」を参照

現在、連邦政府には15の省が設けられ、各種行政を担っている。
法律「メキシコの法律(英語版)」も参照

世界最多の憲法改正国で、建国以来2007年までに175回改正している。

2003年、隣国・アメリカにおいて著作権の保護期間を死後70年・公表後95年に延長した法律最高裁判所において合憲となったことを受けて、それまで「死後または公表後75年」であった規定を「100年」に延長した。この規定は、コートジボワールの99年を抜いて世界でもっとも長い保護期間である。
政党詳細は「メキシコの政党」を参照

主要政党には、中道右派国民行動党(PAN)、20世紀前半から長らく支配政党だった制度的革命党(PRI)、国民再生運動(Morena)の3つが挙げられる。ほかにも、左派民主革命党サパティスタ民族解放戦線や、労働党メキシコ緑の環境党などの小政党が存在する。
司法詳細は「メキシコの司法(英語版)」を参照

司法権は最高裁判所に属している。
国際関係詳細は「Category:メキシコの国際関係」および「メキシコの国際関係(英語版)」を参照
多元外交

19世紀において、隣国のアメリカ合衆国によってテキサス、カリフォルニアを奪われる戦争を行ったものの、その後は同盟関係を結んだアメリカの強い影響下にありながら、歴史と文化を生かした多元外交を行っている。その一例として、第二次世界大戦後の冷戦当時から、隣国のアメリカとの深い関係を保ちつつも、ソビエト連邦キューバなどの東側諸国との関係を維持してきた。特に隣国であるキューバとは、1959年キューバ革命以降近隣のラテンアメリカ・カリブ海諸国が国交断絶した中、汎米主義に基づいて国交を継続していた。
スペインとの関係詳細は「メキシコとスペインの関係(英語版)」を参照

スペインからの独立以降も元の宗主国であるスペインとの関係は、文化や経済面を中心に非常に強い。しかし、1975年9月にカレロ・ブランコ前首相の暗殺に関わったとされる活動家5人がフランシスコ・フランコ政権によって処刑された際に、抗議して一時国交を断絶したことがある。
アメリカ合衆国との関係詳細は「メキシコとアメリカの関係(英語版)」を参照

2020年において、輸出入ともに最大の貿易相手国はアメリカ合衆国である。特に輸出ではメキシコの輸出額の83.3%[11]と大きな割合を占めており、経済面ではメキシコの最大のパートナーである。

しかし、政治面では友好的であると言い難い状況にある。特に近年においては、アメリカのトランプ政権における「国境の壁建設問題」などで両国の関係が悪化した。これはメキシコでのアメリカに対する意識調査で明らかであり、トランプ大統領在任時の2017年に実施された調査では、65%のメキシコ人がアメリカに対して否定的な見方を示し、肯定的な見方をしているのはわずか30%であった[12]

バイデン政権においては、メキシコはアメリカにとって民主主義国家としてのパートナーという見方が強く、2021年に開催された民主主義サミットにおいてもメキシコは招待を受け、参加した。しかし、2022年にロサンゼルスで開催された米州首脳会議では、メキシコは参加を見送った。理由としてバイデン政権が民主主義の欠如などを理由にキューバなど3カ国の招待を行わなかったことから、「米州機構加盟国の全ての国が招待されなければ、出席を見送る」という考えをロペスオブラドール大統領が示したためである[13]
エクアドルとの関係

グラス元副大統領との関係がこじれたため、2024年4月6日で国交を断絶した[14]
日本との関係詳細は「日墨関係」を参照

江戸時代の初めの1609年慶長14年)、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風のため房総御宿海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩本多忠朝がこれら一行を歓待し、徳川家康が用意した帆船で送還したことから、日本との交流が始まった。

1613年(慶長18年)に仙台藩伊達政宗の命を受けた支倉常長は、ローマ教皇に謁見すべく当国とスペインを経由しイタリアローマに向かった。支倉常長ら慶長遣欧使節団の乗ったサン・ファン・バウティスタ号は太平洋を横断しアカプルコへ、その後、陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や教会フレスコ画などに当時を偲ぶことができる。

また、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年明治21年)締結した日墨修好通商条約は日本にとって事実上初めての平等条約であり[注釈 1]、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にあるのは、これに対する謝意の表れとされる。

19世紀末には榎本移民団による移住が始まり、第二次世界大戦後まで続いた。移民者の数は総計1万人あまりに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人として各地に住んでいる。
現在

メキシコシティへの進出は減っているが、メキシコ中央高原都市では日系企業が増えている。日系の自動車3社(日産第二工場、ホンダマツダ)が進出を決めたほか、200社以上が自動車部品工場や大規模倉庫などを建設中である。日本からの投資の90パーセント近くがこの地域に集中しており、一大進出ラッシュとなっている。


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