メキシコ
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また、コアウイラ・イ・テハス州アメリカ合衆国人の入植を認めると、1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にメキシコ領テハステキサス共和国として独立した[6]。その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、1846年にはテキサスをめぐりアメリカ合衆国米墨戦争を争ったものの、メキシコシティを占領されて1848年に敗北すると、テキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ川以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)を喪失した。

領土喪失の経緯からアメリカとの対立は深まっていたが、1861年にアメリカの南北戦争勃発とともにフランス第二帝国ナポレオン3世メキシコ出兵を開始。1863年にはメキシコシティが失陥、フランスの傀儡政権である第二次メキシコ帝国が建国される状況となった。

インディオ出身のベニート・フアレス大統領は、アメリカの支援を得てフランス軍に対して対抗し、1866年に主権を取り戻すものの、このことは後々までアメリカ合衆国の影響力が高まるきっかけとなった。フアレスは自由主義者としてレフォルマ(改革)を推進するも、1872年に心臓発作で死去した。フアレスの後を継いだテハーダ(英語版)大統領は自由主義政策を進めたが、この時代になると指導力が揺らぐことになった。
ディアスの独裁とメキシコ革命農地改革の先導者であり、サパティスタの由来ともなっているエミリアーノ・サパタ(クエルナバカ市にて、1911年4月)詳細は「メキシコ革命」を参照「米西戦争」および「米比戦争」も参照

この隙を突いて1876年に、フランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアスがクーデター(Revolucion de Tuxtepec)を起こし、大統領に就任した。ディアスは30年以上に亘る強権的な独裁体制を敷き、外資が導入されて経済は拡大したものの、非民主的な政体は国内各地に不満を引き起こした。詳細は「棍棒外交」および「en:Border War (1910?19)」を参照「アメリカ合衆国のベラクルス占領(スペイン語版、英語版)」および「パンチョ・ビリャ遠征(英語版)」も参照

1907年恐慌の影響が及び始め、労働争議が頻発する中で1910年の大統領選が行われ、ポルフィリオ・ディアスが対立候補フランシスコ・マデロを逮捕監禁したことがきっかけとなり、メキシコ革命が始まった。パンチョ・ビリャエミリアーノ・サパタベヌスティアーノ・カランサアルバロ・オブレゴンらの率いた革命軍は、路線の違いもありながらも最終的に政府軍を敗北させ、1917年革命憲法が発布されたことで、革命は終息した。革命は終わったものの、指導者間の路線の対立からしばらく政情不安定な状態が続いた。詳細は「ツィンメルマン電報」、「第一次世界大戦」、「en:Battle of Ambos Nogales」、および「バナナ戦争」を参照
PRIの一党独裁ラサロ・カルデナス大統領。メキシコ革命の精神を尊重し、農地改革や石油国有化を推進したが、彼の辞任後の制度的革命党は自ら革命の理念を裏切る腐敗政党と化していった

1928年に次期大統領が暗殺された事件を契機として、現職の大統領だったプルタルコ・エリアス・カリェスは国内のさまざまな革命勢力をひとつにまとめ、1929年制度的革命党(PRI)の前身となる国民革命党(PNR)が結成された[7]。国民革命党はヨーロッパで躍進していた全体主義イデオロギーの影響を受けていたと言われ[7]1932年に議員や首長など公職の連続再任が禁止され、地方政党の解体が進められた。この制度改革以降、党の公認指名を得ることが公職に就く絶対条件となり、同時に公認指名の条件が極度に厳格化された。候補者指名は大統領の権力とともに、その後の制度的革命党の権力の源泉となった。公職ポストが制度的革命党によって独占されるとエリート階級は党上層部への服従を余儀なくされ、71年間続く事実上の一党独裁体制が完成した[7]

1934年に成立したラサロ・カルデナス政権は油田国有化事業や土地改革を行い、国内の経済構造は安定した。その後、与党の制度的革命党(PRI)が第二次世界大戦を挟み、一党独裁のもとに国家の開発を進めた。アメリカ合衆国や西側の資本により経済を拡大したが、その一方で外交面ではキューバなどのラテンアメリカ内の左翼政権との結びつきも強く、政策が矛盾した体制ながらも冷戦が終結した20世紀の終わりまで与党として政治を支配した。

1950年代ごろから一党支配の弊害が指摘されるようになり、1960年代には選挙競争性の向上を目的とした制度改革が試みられるようになった。1976年に就任したポルティーヨ大統領が起用したレジェス・エロレス(スペイン語版)は、拘束式小選挙区比例代表並立制の導入など多くの項目からなる「レフォルマ・ポリティカ」と呼ばれる政治改革を策定し、現在に続くメキシコ政治の基礎を築いた[7]

また、20世紀の前半から中盤にかけては石油の産出とその輸出が大きな富をもたらしたものの、それと同時に進んだ近代工業化の過程で莫大な対外負債を抱え、20世紀中盤に工業化には成功したものの、慢性的なインフレと富の一部富裕層への集中、さらには資源価格の暴落による経済危機など、現代に至るまで国民を苦しめる結果となった。
メキシコ麻薬戦争代大統領ビセンテ・フォックス・ケサーダ(左)と代大統領アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール(中央)

1980年代以降は麻薬カルテルの抗争により治安が悪化してしまう。カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ大統領の実兄のラウル・サリナスが麻薬取引に関与して逮捕されたことを受け、アメリカに出国し事実上亡命するなど、政権中央部まで汚染され尽くした。

冷戦が終わりアメリカからの支援が止まり、さらに麻薬カルテルとの癒着が明らかになり与党のPRIの支持率は落ち、2000年に長年続いた長期独裁政権は終わりを告げた。

カルデロン政権は、麻薬カルテルと癒着した警察幹部や州知事すらも逮捕するという強硬姿勢で臨み、を導入して麻薬犯罪組織を取り締まっている。これに伴い、カルテルの暴力による死者が激増、2010年には毎年1万5,000人以上の死者を出す事態になっている(メキシコ麻薬戦争)。
中流層の増加

一方、原油価格の高騰やNAFTA締結後の輸出量の増加、さらに内需拡大傾向を受けて中流層が増加し、「ネクスト11」の一国に挙げられている。経済政策では原油価格高騰に伴いガソリン価格を連続して値上げして、国民から不満の声が上がっている。

2009年に入ってからはカナダやアメリカ合衆国とともに、新型インフルエンザH1N1)の発祥地とされている。2010年7月4日、全国32州のうち14州で地方選挙が実施された。2000年まで政権党だった野党の制度的革命党(PRI)が前進(知事選が実施された12州のうち10州でほぼ当選)した。
PRI政権詳細は「メキシコ総選挙 (2012年)(スペイン語版、英語版)」、「ジョ・ソイ・132(英語版、スペイン語版)」、および「エンリケ・ペーニャ・ニエト」を参照

2012年7月、大統領選挙が実施され、当日投開票された。保守系制度的革命党(PRI)のエンリケ・ペーニャ・ニエト(任期:2012年12月1日 - 2018年11月30日)が選出され、同年12月から大統領に就任した。


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