この地域は、紀元前2万年ごろの人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年ごろ、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られている。
先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれた。その後もユカタン半島のマヤ文明、メキシコ中央高原のアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。その高度な文明はスペインによる植民地化によって大きな打撃を受けたが、それでもなお、その文化や技術は現代のメキシコ社会に影響を与えている。
アステカ帝国詳細は「アステカ」を参照
14世紀後半、テスココ湖の西岸にあったテパネカ族の国家アスカポツァルコにテソソモクという英傑が現れ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモクが没したあとの15世紀前半、テスココ、トラコパンとともにアステカ三国同盟(英語版)を築いた。テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、アステカの湖上の都テノチティトランを中心にアステカ帝国を形成した。アステカの守護神にして太陽と戦いの神ウィツィロポチトリと、雨の神トラロックを祀る高さ45メートルの大神殿「テンプロ・マヨール」がメキシコシティ歴史地区の憲法広場の北東にたっている[5]。この大神殿は、アステカ帝国の中心であるテノチティトランの中心部に位置していたとされている。アステカ帝国は比類なき軍事国家であり、現在のコスタ・リカにまで隆盛を轟かせていた。
スペイン植民地時代詳細は「ヌエバ・エスパーニャ」を参照「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照モクテスマ2世(中央)とエルナン・コルテス(右)の会見の様子。コルテスの隣の女性は通訳のマリンチェ
1492年のクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテスが上陸。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、1521年に皇帝クアウテモックを惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地にヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領を創設。ペルー副王領と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上にメキシコシティが築かれた。
メキシコ独立革命詳細は「メキシコ独立革命」を参照独立の父 ミゲル・イダルゴ。イダルゴは破れたが、志はホセ・マリア・モレーロスに引き継がれた
スペインによる支配は300年続いたが、19世紀を迎えるとアメリカ独立戦争やフランス革命、ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。
1808年、ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機としてスペイン独立戦争が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスとインディアス各地でクリオーリョたちの蜂起が始まる中、1810年9月15日にミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。