メキシコ
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この意識は、19世紀末の米墨戦争敗戦直後から特に見られるようになり、以来長年にわたり議論が繰り返されているが、変更には至っていない[4]
歴史詳細は「メキシコの歴史」を参照
先コロンブス期パレンケマヤ時代のピラミッド。アステカの神ケツァルコアトルテスカトリポカアステカのジャガーの戦士

この地域は、紀元前2万年ごろの人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年ごろ、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られている。

先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれた。その後もユカタン半島のマヤ文明、メキシコ中央高原のアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。その高度な文明はスペインによる植民地化によって大きな打撃を受けたが、それでもなお、その文化や技術は現代のメキシコ社会に影響を与えている。
アステカ帝国詳細は「アステカ」を参照

14世紀後半、テスココ湖の西岸にあったテパネカ族の国家アスカポツァルコテソソモクという英傑が現れ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモクが没したあとの15世紀前半、テスココトラコパンとともにアステカ三国同盟(英語版)を築いた。テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、アステカの湖上の都テノチティトランを中心にアステカ帝国を形成した。アステカの守護神にして太陽と戦いの神ウィツィロポチトリと、雨の神トラロックを祀る高さ45メートルの大神殿「テンプロ・マヨール」がメキシコシティ歴史地区の憲法広場の北東にたっている[5]。この大神殿は、アステカ帝国の中心であるテノチティトランの中心部に位置していたとされている。アステカ帝国は比類なき軍事国家であり、現在のコスタ・リカにまで隆盛を轟かせていた。
スペイン植民地時代詳細は「ヌエバ・エスパーニャ」を参照「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照モクテスマ2世(中央)とエルナン・コルテス(右)の会見の様子。コルテスの隣の女性は通訳のマリンチェ

1492年クリストファー・コロンブスアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテスが上陸。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、1521年に皇帝クアウテモックを惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地にヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領を創設。ペルー副王領と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上にメキシコシティが築かれた。
メキシコ独立革命詳細は「メキシコ独立革命」を参照独立の父 ミゲル・イダルゴ。イダルゴは破れたが、志はホセ・マリア・モレーロスに引き継がれた

スペインによる支配は300年続いたが、19世紀を迎えるとアメリカ独立戦争フランス革命ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。

1808年ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機としてスペイン独立戦争が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、キトラパスサンティアゴカラカスボゴタブエノスアイレスとインディアス各地でクリオーリョたちの蜂起が始まる中、1810年9月15日ミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。

ペルーのクリオーリョと同様に当国のクリオーリョも先住民大衆の反乱を恐れたため、独立運動には消極的であり、イダルゴも、反乱を継いだメスティーソのホセ・マリア・モレーロス神父もアグスティン・デ・イトゥルビデ率いる王党派軍に敗れたが、モレーロスの乱が鎮圧されたあとの1820年ごろには南部のシモン・ボリーバルホセ・デ・サン=マルティンらに率いられた解放軍が各地を解放し、インディアスに残る植民地は島嶼部とブラジルを除けば当国とペルー、中米のみとなっていた。

スペイン本国で自由派が政権を握ると(リエゴ革命)、1821年9月15日に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王フェルナンド7世は入国を断ったため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位する形で第一次メキシコ帝国が建国され、中央アメリカを併合した。
相次ぐ対外戦争メキシコ・アメリカ戦争により、国土の半分近いカリフォルニアをアメリカ合衆国に奪われた詳細は「テキサス独立戦争」および「米墨戦争」を参照「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照

独立後は混乱が続き、1823年には帝政が崩壊して連邦共和国のメキシコ合衆国 (19世紀)となり、このときに中米連邦が独立した。独立後は内戦による農業生産力の低下、鉱山の生産力低下、カウディーリョの群雄割拠、流通の混乱など問題が多発し、政治的には不安定な時代が続き、1835年10月23日から1846年8月22日まで中央集権国家であるメキシコ共和国となっていた。

また、コアウイラ・イ・テハス州アメリカ合衆国人の入植を認めると、1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にメキシコ領テハステキサス共和国として独立した[6]。その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、1846年にはテキサスをめぐりアメリカ合衆国米墨戦争を争ったものの、メキシコシティを占領されて1848年に敗北すると、テキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ川以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)を喪失した。


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