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ディアス再選反対運動1907年恐慌でウォール街に集まった群衆
メキシコ革命は、1877年以来メキシコ大統領の座にあったポルフィリオ・ディアスに対する反対運動として始まった。ディアスは、1860年代フランスの侵略と戦い、それを撃退した英雄の一人であったが、大統領になってからは、政治的には反対派への弾圧を繰り返し、経済的には無原則な外資導入によって国内の主要産業のほとんどすべてを外国資本に売り渡す政策を続けていた。外見的には、この外資導入により鉄道敷設が進むなど産業の振興と経済の発展が進んだかに見えたが、その反面で貧富の差が極端に拡大した。
また、ディアス政権は近代的な国家の体裁を整えるために、土地の登記制度を進めた。しかしメキシコの先住民には元々土地の所有などという概念はなく、ほとんどの農民は所有権のはっきりしない村ごとの共有地で農耕を営んできた。ディアスは土地制度の「近代化」のために、そのような所有権の曖昧な土地を政府が接収し、外国資本や大農園主に売却する政策を進め、その結果メキシコの農民の99.5%が土地を失い、ペオンと呼ばれる農業労働者に転落した。土地を取り戻そうとする先住民たちの戦いはすべて、政府軍と大農園主や外国資本の私兵による弾圧によって鎮圧された。
1907年米国で恐慌が発生し、メキシコにもその影響が及び始めると、発展していたように見えたメキシコ経済も揺らぎはじめた。大農園主の中にも経営が苦しくなる者が現れ、多くの農業労働者が職を失い、鉱山労働者を中心に労働争議が頻発し始めた。それでもなお、ディアスは1910年の大統領選に立候補した。それに対しディアス再選反対を掲げて立候補したのが、新興の大農園主フランシスコ・マデロであった。マデロは政治的手腕はともかくとして、農民のあいだにカリスマ的な人気があり、30年にも及ぶ独裁政治で腐敗の極にあったディアス政権に飽き飽きしていたメキシコ人の間で急速に支持を広げていった。この状況に危機感を募らせたディアス大統領は、「民主的な選挙」という近代国家の仮面をかなぐり捨てた。マデロは逮捕され、投票日をサン・ルイス・ポトシの監獄で迎えた。
マデロの革命「en:Border War (1910?19)」も参照
選挙が終わり、ディアスが大統領に再選されると、マデロは釈放されたが、すぐに米国に逃亡、10月25日にサン・ルイス・ポトシ綱領 (Plan de San Luis de Potosi) を発表した。サン・ルイス・ポトシ綱領は、武力によりディアス政権を打倒することを宣言したものである。
米国にいたマデロの周囲には思うように同志が集まらなかったが、その間メキシコ国内ではマデーロに同調する動きが相次いだ。11月18日、マデーロの同志アキレス・セルダンが、プエブラ市にある館で武装蜂起の準備が露見し、警察に踏み込まれて射殺された。これをきっかけに、メキシコ市の南隣モレーロス州では、エミリアーノ・サパタが武装蜂起、北部一帯ではフランシスコ・ビリャ(パンチョ・ビリャ)、パスクァル・オロスコ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンなどが次々と反乱に立ち上がる。
ディアス大統領は80歳を越えて、その政治手腕は以前と比べて摩滅しており、側近が政治を壟断する状況となっていた。反乱軍が、米国との国境の要衝シウダー・フアレスを占領すると(シウダー・フアレスの戦い (1911年)(英語版))、ディアスの側近たちはマデロと裏取引し、ディアス一人を生け贄にして体制の維持を図ろうと画策する。マデロも、その裏取引に応じた。マデロはただちに戦闘を中止し、政府との休戦交渉(Treaty of Ciudad Juarez)を開始する一方、ディアスは側近たちに説得されて大統領を辞任、フランスに亡命する。1911年5月、フランシスコ・マデロはメキシコ大統領に就任した。
ウエルタ将軍の反革命詳細は「悲劇の十日間」を参照
マデロは、農民のあいだにカリスマ的な人気があったが、本質的には大農園主出身の政治家であり、メキシコに民主的な制度を導入し近代国家の外見を整えることには熱心だったが、貧富の格差の解消・土地改革など農民の貧しい生活を改善することには興味を示さなかった。しかし、彼の反乱に参加した農民たちは、パンと農地のために戦ったのであった。革命に参加した農民たちは、マデロの政策に幻滅した。その一方で、保守派も彼に対して幻滅していた。全盛期のディアスや、後のカランサのような政治的手腕がなかったからである。
最初にマデロと決裂したのは、モレーロス州で戦っていたエミリアーノ・サパタであった。彼は「強奪された土地・森林・水利などの財産は、正当な権利を有する村及び人民が直ちに保有するものとする。」とする「アラヤ綱領」を発表してマデロ政権に反乱を宣言する。続いて、北部では革命軍の指導者の一人だったが、高い地位につけなかったことに不満を抱いていたパスクァル・オロスコ将軍が、保守派の支援を受けて反乱を起こした。