メキシコ革命
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なお、マデロ大統領の家族から在メキシコ日本大使館に保護の要請がなされ、当時の駐メキシコ大使・堀口九萬一はマデロ大統領の家族を危険を顧みず保護したといわれる[10]
ウエルタ政権に対する革命「タンピコ事件」、「en:Ypiranga incident」、および「アメリカ合衆国のベラクルス占領(スペイン語版、英語版)」も参照

政治的には有能だったとは言えないが、カリスマ的な人気があったマデロ大統領を殺害してウエルタ将軍が政権を握ると、マデーロ支持派と反対派とを問わず、ほとんどの革命派が一斉にウエルタ政権打倒の兵を挙げる。

モレーロス州ではサパタが引き続きゲリラ戦を展開、北部一帯ではカランサ・オブレゴン・ビリャら革命派が「護憲革命軍」に結集し、カランサを「革命の第一統領」として武装蜂起する。そのなかでももっとも活躍したのがチワワ州にあったフランシスコ・ビリャの護憲革命軍北部師団であった。ビリャは1913年10月、奇策で米国との国境のシウダー・フアレスを奪取、引き続き州都チワワ市も占領してチワワ州全体の支配権を握ると、首都に向けて南下をはじめ、1914年4月にはトレオン、6月にサカテカスと、立て続けに占領して快進撃を続ける。

ところが、この間ウエルタ政権打倒という一致点で合流していた革命派内部の対立が激化する。護憲革命軍の「第一統領」となったカランサは、大農園主の出身で、革命前はコアウィラ州知事を務めていた。彼は、マデロと同様に、民主的な制度をメキシコに導入することには熱心だったが農地改革などの社会改革の意志はなかった。一方、軍事的な功労者であるビリャは、極貧の生活から馬賊となり、やがて革命軍に合流した、いわば「ならず者」で、思想的な背景は強固ではなかったが、大農園主に対する強い敵意から農地改革の必要性を主張していた。エミリアーノ・サパタは、護憲革命軍とは別に独自の立場で戦っていたが、彼はもちろん一貫して農地改革を強く主張していた。両者の対立は、革命軍がメキシコ市を目前にしたところで決定的な状態に陥る。

両派の間に立って関係修復に努力したのは、護憲革命軍北西師団を率いるオブレゴン将軍だった。彼も大農園主ではあったが、カランサやマデーロのように代々の大農園主ではなく、貧しい生活から身を起こして一代で富を築き上げた人物で、考え方が柔軟で、農民の貧困な生活の改善、農地改革の必要性をよく理解していた。しかし、その彼も調停の努力が不発に終わり、両者の関係が修復不能となると、カランサ派に接近していく。

カランサは、ビリャに足止め命令を下したり、鉄道を効果的に利用するビリャの戦法を逆手にとって石炭の供給を止めて身動きできないようにして、その間に1914年8月、オブレゴンとともに首都メキシコ市に入城を果たす。
セラヤの決戦とカランサ派の勝利「en:Bandit War」も参照

革命派は勝利したが、すでにビリャ・サパタ派とカランサ・オブレゴン派の対立は決定的だった。1914年10月、革命軍の代表者を集めてアグアスカリエンテス会議が開催される。ビリャとサパタはこの会議で共闘を組み、多数を制してサパタのアヤラ綱領を革命の共同綱領として採択し、カランサとビリャの同時退陣を決めるが、カランサはこれを無視、メキシコ市からベラクルスに逃亡してビリャ派・サパタ派との戦闘に突入する。

同年11月から12月にかけて、カランサ・オブレゴン派の撤退した首都メキシコ市に、サパタ派・ビリャ派が相次いで入城するが、両者ともメキシコ市で政権を握る意志がなく、すぐに首都を引き払ってしまった。カランサ派は労せずして首都を奪還し、さらにビリャ派を追って西に進む。詳細は「セラヤの戦い(スペイン語版、英語版)」を参照

カランサ派とビリャ派は、1915年4月5日から6日にかけてと13日から14日にかけての2回、グアナフアト州セラヤで激突する。カランサ派はオブレゴンが指揮する北西師団の兵力1万1000人、火砲13門・機関銃86挺、ビリャ派の北部師団は2万2000人、野砲30門以上で、兵力はビリャの北部師団が上回っていたが、オブレゴン軍の86挺の機関銃が決定的な役割を果たした。4月5日から6日の戦闘では、一時オブレゴンの軍は敗北一歩手前まで追いつめられるが、最終的に機関銃の猛射によってビリャの自慢の騎兵突撃をくい止め、撃退に成功する。

続く13日から14日にかけての戦いでは、オブレゴンは第一次世界大戦の新戦法を取り入れ、戦場に塹壕と鉄条網を張り巡らせてビリャの騎兵突撃を阻止して、そこに機関銃の猛射を浴びせかけた。今度は一方的な展開でビリャ派は総崩れとなり、戦死4,000人、捕虜5,000人を出し、火砲全部を失って退却した。

メキシコ革命の天王山となったこの戦闘でカランサ派は主導権を握り、5月にトリニダー、6月にレオンを占領し、ビリャの北部師団は完全に瓦解する。ただし、その間に6月のレオン占領の際、ビリャ派の放った砲撃がオブレゴンの陣営を直撃し、オブレゴンは片手を切断する重傷を負う。「コロンバスの戦い (1916年)(スペイン語版、英語版)」および「パンチョ・ビリャ遠征(英語版)」も参照
1917年の革命憲法とカランサの退場「ツィンメルマン電報」、「en:Battle of Ambos Nogales」、および「バナナ戦争」も参照

支配権を握ったカランサだが、彼の派閥のなかでも新たな対立が生じていた。カランサ派は新しい憲法の制定に乗り出していたが、カランサの意に反して、彼の陣営の将軍たちの制定した憲法は、私有財産絶対の思想を否定し、大土地所有者に国家が介入して農地改革を行なう道を開き、労働者の権利保護を謳うなど、彼らの敵であったビリャ派やサパタ派の主張を大幅に取り込んだ進歩的な内容となっていた。貧しい農民や労働者たちを糾合した軍を実際に率いていた将軍たちは、もっぱら後方での指揮に終始していたカランサと違い、メキシコの大衆が何を求めているのか熟知していた。これが、その後のメキシコの政治体制の基本となった1917年の革命憲法である。革命政権は強力な基盤を持つカトリック教会を敵視し、政教分離政策を推し進めた。1917年の革命憲法では外国人司祭の活動や宗教教育以外の教育への関与などが禁止された[11]

カランサは、事実上この憲法の内容を無視して政治を進めた。ビリャ派が瓦解した後、モレーロス州の山中でゲリラ戦を続けていたエミリアーノ・サパタは、1919年4月10日、「サパタ派に寝返りたい」と称して接近してきた政府軍の将校に不意打ちを受け、非業の死を遂げた。詳細は「シウダー・フアレスの戦い (1919年)(英語版)」を参照

この間カランサの求心力は急激に低下する一方、実質的にビリャ派との戦闘を指揮し、柔軟な考え方で農地改革などの社会改革の必要性を強く認識していたオブレゴン将軍の人望が高まる。この状況に危機感を抱いたカランサは、オブレゴンを政府から退け、さらに大統領に立候補しようとするのを妨害し、逮捕しようとする。1920年1月、オブレゴンは故郷のソノラ州に逃亡して、4月にはカランサに対する反乱を宣言する。ほとんどの将軍たちはオブレゴンにつき、ビリャ派とサパタ派の残党もオブレゴン派についた。わずか一ヶ月後にはカランサ大統領は首都メキシコ市から撤退に追い込まれ、港町ベラクルスに向かうが、ベラクルス州知事もオブレゴン派に付き、カランサはプエブラ州の山中を逃げまどったあげく、反乱軍に射殺された。
内戦の終結
オブレゴン大統領「en:Ruby Murders」も参照

最終的な勝者となったオブレゴンは1920年6月大統領選に立候補し、当選する。この間、オブレゴンはビリャ派・サパタ派の残党と最終的な和平協定を結び、両派はついに武器を置く。だが、フランシスコ・ビリャは1923年7月23日、秘書と護衛をのせた車を自ら運転中、何者からか銃撃を受け射殺された。

ほぼ同じ頃、オブレゴンの後継大統領の座を巡って、彼の忠実な部下で、オブレゴンが正式に大統領に当選するまでの間臨時大統領を務めていたこともあるアドルフォ・デ・ラ・ウエルタ蔵相が反乱を起こした。一時はデ・ラ・ウエルタが優位に立ったが、最終的にはオブレゴンが勝利した。この反乱を最後に、メキシコ革命の戦乱は、以降クリステーロの反乱(後述)など若干の戦闘はあるがほぼ収束に向かう。


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