メキシコ第二帝政
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保守派はヨーロッパ、特にスペイン女王イサベル2世やフランス皇帝ナポレオン3世から資金提供を受け、自由主義者は1865年に南北戦争を終えたアメリカ合衆国大統領リンカーンジョンソンを後ろ盾とした。

1867年にマクシミリアンは廃位され、ベニート・フアレスの命令でケレタロ近郊のセロ・デ・ラス・カンパナスで処刑された。

マクシミリアンは保守派にとっては自由主義的に過ぎ、自由主義者にとっては保守的に過ぎたのである。マクシミリアンはメキシコに宿命を感じ、大いに献身した。マクシミリアンはメキシコ第一帝政の皇帝アグスティン・デ・イトゥルビデの遺孫を養子にしていた。2019年現在その子孫のマクシミリアン・フォン・ゲッツェン=イトゥルビデ(英語版)がメキシコ帝位請求者となっている。
地域区分

帝国は50の県(departamentos)に区分されていた。

アカプルコ

アグアスカリエンテス

アラモス

アリゾナ

アウトラン

バトピラス

カリフォルニア

カンペチェ

チアパス

チワワ

コアウイラ

コアルコマン

コリマ

ドゥランゴ

エフトラ


エル・ポトシ

フレスニヨ

グアナフアト

ゲレーロ

ウエフキリャ

イトゥルビデ

ハリスコ

ラ・ラグーナ

マピミ

マタモロス

マテワラ

マサトラン

ミチョアカン

ナヤリット

ナサス


ヌエボ・レオン

オアハカ

プエブラ

ケレタロ

シナロア

ソノラ

タバスコ

タマウリパス

タンシタロ

テワンテペク

テポスコルラ

トラスカラ

トルーカ

トゥーラ

トゥランシンゴ


トゥスパン

バジェ・デ・メヒコ

ベラクルス

ユカタン

サカテカス

メキシコ第二帝国の県
フランスの役割

ナポレオン3世の心中には単にフランスの借款を回収する以上の野心的な狙いがあった。ウジェニー皇后から大きな影響を受け、メキシコの君主制を復活させようとしたのである。

1861年以前にはアメリカ合衆国は欧州列強によるメキシコに対するいかなる内政干渉もアメリカ合衆国への挑戦とみなしていたため、各国は両国と紛争を引き起こさないようにしていた。しかし1861年にアメリカ合衆国は南北戦争の渦中に巻き込まれ、ワシントン政府には他国に干渉する余力がなくなった。メキシコのカトリック教会の擁護者を自任するウジェニー皇后に勧められ、ナポレオン3世はその隙を突いた。

ナポレオン3世はフランスが西半球の近代化に大きな影響力を得るのみならず南アメリカ市場の獲得を可能にする機会を捉えた。異父弟モルニー公爵メキシコ国債の大口保有者であったことも拍車をかけた。
年表

1832年:フェルディナント・マクシミリアン大公が7月6日に、フランツ・カール大公とゾフィー妃の次男としてウィーンのシェーンブルン宮殿で生まれる。

1851年:帝国海軍大尉となる。

1856年:トリエステのアドリア港付近にミラマーレ城の建設が始まる。

1857年:フェルディナント・マクシミリアンが北イタリアのロンバルド=ヴェネト総督に任命される。7月27日にベルギー王女シャルロットとブリュッセルで結婚する。

1859年:4月19日に総督を解任される。フランスと
ピエモンテ=サルデーニャの間に戦争が勃発する。

1861年:ナポレオン3世がマクシミリアンをメキシコ皇帝候補に推挙する。

1863年:10月にメキシコの代表団がミラマーレに到着しマクシミリアンとシャルロッテに帝冠受諾を請願する。マクシミリアンが国民投票による賛成を条件として受諾する。

1864年:4月14日にマクシミリアンとシャルロッテがオーストリア船ノヴァーラに乗ってミラマーレを離れメキシコへ出航する。

1865年:南北戦争が終結する。フランスにモンロー主義を守るように圧力がかかる。

1865年:マクシミリアンがドン・アグスティンとドン・サルバドールを養子にする。

1866年:ナポレオン3世がフランス軍のメキシコ撤退を命令する。マクシミリアン皇帝がメキシコ脱走を拒否する。シャルロッテが援助要請のために渡欧するが被害妄想が進行し精神を病む。共和国軍がメキシコを進軍する。


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