この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年9月)
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}
「メキシコ革命」とは異なります。
モンテ・デ・ラス・クルセスの戦い(1810年10月30日)の記念碑
メキシコ独立革命(メキシコどくりつかくめい)、またはメキシコ独立戦争(メキシコどくりつせんそう、スペイン語: Independencia de Mexico、英語: Mexican War of Independence)は、スペイン領植民地であったメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の独立に向けた戦争(1810年 - 1821年)。1810年9月16日に始まった当初は植民支配者に対する農民反乱として始まったが、最終的には政教分離や自由主義を掲げ独立を望むリベラル派(liberales)と、カトリックおよび君主制の権威の尊重や身分制・集権制の保持を主張し独立を望まなかった保守派(conservadores)が手を組む意外な展開となり、メキシコ独立へと至った。 歴史家の中には、メキシコの独立闘争は1650年12月、アイルランド人のカトリック教徒、ウィリアム・ランポート(William Lamport、別名ギジェン・デ・ランパルト Guillen de Lampart、ギジェン・ロンバルド Guillen Lombardo)が異端審問監獄から脱走し、独立宣言文をメキシコシティ中に貼って回ったときが始まりであるとする者もいる。これは新世界で最初の独立宣言であるのみならず、民主的な選挙で選ばれた君主を置くこと、人種の平等、土地改革をすることを公約した最初の文書でもある。ランポートの望みはメキシコがスペインの支配を破り、教会と国家が完全に分離することであったが、彼は数日後に逮捕され、異端として火刑に処された。 フェルナンド7世の退位とフランス軍のスペイン侵攻のニュースがヌエバ・エスパーニャに届いたのは、1808年7月16日であった[1]。ほどなくしてフランス政府と対仏抵抗政府の両方の使者がヌエバ・エスパーニャに訪れ、各自の政府を承認するよう要請した[1]。この事態を受けて一部のペニンスラール(支配階級であるイベリア半島生まれのスペイン人)は副王を解任し、退役軍人のペドロ・デ・ガリバイ
独立への最初の動き
ミゲル・イダルゴの独立運動ミゲル・イダルゴ像
ちょうど同じ頃、メキシコ中央高原の現在のケレタロ市周辺では、反乱を企てるクリオーリョ(被支配階級であるメキシコ生まれの土着の白人)の集団がいた[1]。その中のひとつに、グアナフアト州にある小さな町、ドロレス(Dolores、現在のドローレス・イダルゴ Dolores Hidalgo)で司祭を務めていたミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャ(Miguel Hidalgo y Costilla)が加入した[1]。クリオーリョであった彼はドロレスの司祭として先住民(インディオ)や混血(メスティーソ)の農民や労働者達の生活改善に力を入れる一方、インディオの言葉を覚え、農民の厳しい暮らしに心を痛めていた。またグアナフアトの銀山が唯一の産業であるこの地方の経済を変えるため、産業の多様化が必要だと考えていた。
彼はドロレスで司祭を務め始めた頃から、仲間のクリオーリョたちとともに、先住民とメスティーソの農民が富裕なペニンスラールの地主や貴族に対して蜂起するという計画を企てていた。またイダルゴは自宅を自由な議論の場とし、先住民・メスティーソ・クリオーリョ・ペニンスラールら多様な人々を迎え入れては討論を行っていた。その議題は時事問題などであったが、イダルゴは社会問題や経済問題について自分の意見を披露した。こうした議論の中から、スペインの支配する植民地政府に対して直接蜂起し、ヌエバ・エスパーニャの社会や経済をスペイン人の強権支配から解放するというアイデアが生まれることとなる。