イダルゴは処刑されたものの、ヌエバ・エスパーニャ各地で反乱は相次いでいた。特に大きな反乱は、南部で先住民の血を引くメスティーソ[6]のカトリックの司祭であったホセ・マリア・テクロ・モレーロス・イ・パボン(Jose Maria Teclo Morelos y Pavon)がイダルゴの蜂起の直後に起こしたものだった。彼は1812年には南部の広い一帯を支配し、1812年にはオアハカ、1813年にはアカプルコと主要都市を次々に陥落させた。
農民運動色の濃いイダルゴらの運動とは異なり、モレーロスの運動ははっきりとスペインからの独立と共和国建設を掲げていた。無秩序の統制されていない農民を率いたイダルゴの蜂起は6ヶ月しか続かない農民一揆そのものであったが、モレーロスの軍は訓練され、規律のある少人数の編成で遊撃戦を行った[3]。南部のほとんどを支配したホセ・マリア・モレーロスは1813年チルパンシンゴ(現在のゲレーロ州)に各地の代表を集め議会を開催し独立宣言を発した。翌年主権在民、三権分立、奴隷制廃止(身分制度の廃止)、私有財産の保障などの自由主義的内容のメキシコ最初の憲法アパチンガン憲法を定めた。これに対し政府軍は各地で攻勢に転じ、1814年ナポレオン戦争の終結でスペイン本国ではフェルナンド7世が国王に返り咲いたこともあり反乱に対する弾圧が激しくなった。モレーロス軍は敗走し、1815年暮れにはホセ・マリア・モレーロスが逮捕され、同年12月22日にサン・クリストバル・エカテペクの村で反逆者として銃殺刑になった。メキシコのモレーロス州の名は、ホセ・マリア・モレーロスを記念して付けられている。 モレーロス処刑後、ヌエバ・エスパーニャはスペインから指名された副王の支配下で、スペイン王を支持するペニンスラールや保守派クリオーリョらの兵力によって安定しつつあった。1815年から1821年にかけて、スペインからの独立を求める戦闘は孤立したゲリラ組織によって散発的に行われる程度にまでなっていた。これらの組織の中で二人の人物が抜きん出ていた。ホセ・マリア・モレーロスの部下で、彼の後を継ぎ現在のプエブラ州地域で戦っていたグアダルーペ・ビクトリア(Guadalupe Victoria、本名はマヌエル・フェリクス・フェルナンデス〈Manuel Felix Fernandez〉。後に初代メキシコ大統領に就任)と、現在のオアハカ州地域で戦っていたビセンテ・ゲレーロ(Vicente Guerrero、後に第2代メキシコ大統領に就任)である。彼らは人望が厚く、ゲリラ達や支持者達から尊敬されていた。 情勢が安定してきたと感じた副王は、1820年、武器を捨てた反乱者には残らず恩赦を与えると布告した。10年間の内戦の疲れとイダルゴおよびモレーロスという独立指導者の死によって、1820年の初頭までに独立運動は行き詰まり、崩壊しつつあった。反乱軍やゲリラ組織は、スペイン軍の手強さと、社会的にもっとも影響力のある民族集団であるクリオーリョに広がった無関心によって困難な立場に置かれていた。イダルゴ軍やモレーロス軍など非正規軍による過剰な暴力や大衆迎合的な政治手法は、クリオーリョの間にあった人種闘争や階級闘争への恐怖を強固にしてしまっていた。クリオーリョらはより流血の少ない独立への道が見つかるまでは、保守的なスペイン植民地支配をいやいやながらでも黙認することに考えを決めていた。 1820年12月、弱体化した反乱軍に対する最後の作戦となるはずだった、ビセンテ・ゲレーロ軍に対する掃討が開始された。副王フアン・ルイス・デ・アポダカは王党派のクリオーリョであるアグスティン・デ・イトゥルビデ(Agustin de Iturbide)をオアハカへと派遣した。イトゥルビデはモレリア(バリャドリード)出身の土着白人で、独立革命の初期にミゲル・イダルゴやホセ・マリア・モレーロスらの強力な独立軍を手ひどく痛めつけて輝かしい戦果を収め、ヌエバ・エスパーニャ植民地政府やその支持者からは熱狂的な名声を集めていた。ヌエバ・エスパーニャのキリスト教会の権威からの覚えも良いイトゥルビデは、敬虔で宗教的で、所有権や社会的特権(フエロ)の守護に献身的に打ち込む、保守派クリオーリョの価値観の化身であった。もっとも、クリオーリョの彼は出世や富への道を閉ざされていたことに強い不満を持っており、独立派ゲリラへ共感を覚えていた。 イトゥルビデのオアハカ遠征の任務は、偶然にもスペイン本国でのフェルナンド7世の独裁政治に対する軍事クーデターの成功と同時期であった。クーデターの指導者、ラファエル・デル・リエゴ大佐は南アメリカの独立運動鎮圧のため国王が編成した遠征軍の指揮を任されたが反旗を翻し、リベラルな「1812年憲法」復活に同意するよう国王に強いて、スペインに自由主義が蘇った。(スペイン立憲革命) 自由主義運動の成功のニュースがメキシコに届くと、イトゥルビデはこれを、メキシコを支配する王党派に対する脅威であるとともに、クリオーリョがメキシコの支配権を握る機会でもあるとみた。イトゥルビデの思い通り、植民地の保守派・王党派は母国の自由主義臨時政府に対して反抗し立ち上がり、皮肉にもこれがメキシコのスペインからの独立につながった。イトゥルビデはビセンテ・ゲレーロ軍との最初の衝突の後、植民地政府への忠誠を捨て、反乱軍リーダーのゲレーロと会談し、新しい独立闘争の原則について論議した。 イグアラ イトゥルビデは彼の率いる軍隊がイグアラ綱領を受け入れたと確信した後、ゲレーロに対し自分の軍隊と合流し、政治的に保守的な新しい独立計画を実現するのを手助けしてほしいと説得した。こうして新しい軍隊、「三つの保証軍(Ejercito de las Tres Garantias)」がイグアラ綱領実現のためイトゥルビデの指揮下動き出した。この計画案は広い基盤に基づいていたため、王党派も愛国派も満足するものとなった。スペインからの独立という目標と、カトリック教会の保護は、メキシコの全党派を一体化させたのである。 イトゥルビデはグアダルーペ・ビクトリアなど各地にいたゲリラ的反乱軍を合流して進軍し、スペイン人王党派と本国の自由主義政府とのつながりを断ち切ることに成功した。1821年8月24日にベラクルス州コルドバで、イトゥルビデと副王との間でイグアラ綱領を確認するコルドバ条約
グアダルーペ・ビクトリアとゲリラ戦
独立運動の崩壊とアグスティン・デ・イトゥルビデの遠征
スペイン立憲革命とメキシコ独立アグスティン・デ・イトゥルビデ
メキシコは、スペインから迎え入れるフェルナンド7世国王か、保守的なヨーロッパ諸国から迎え入れる王子が支配する独立君主国となる
土着のクリオーリョと、スペイン生まれのペニンスラールは平等な権利と特権を有する
カトリック教会はメキシコにおける特権と宗教的独占を保証される
この後イトゥルビデのもと新憲法を決める議会が開催されたが、君主のなり手についてはヨーロッパのどこからも良い返事がなかった。フェルナンド7世はメキシコのスペイン植民地復帰を望んでおり、他国の王室もスペインの立場を考えメキシコ王になってほしいという申し出を断った。1822年7月21日、イトゥルビデ自らが皇帝「アグスティン1世」を名乗って君主となり議会から承認され、第一次メキシコ帝国が成立した。
脚注^ a b c d e 中川2000, p86
^ 今日でも9月16日の独立記念日の前夜9月15日の午後11時に、イダルゴの鳴らした鐘が鳴らされ、メキシコ大統領がドロレスの叫びを読み上げている。
^ a b 中川2000, p87
^ 白人とアメリカ大陸原住民の混血者
^ 今井美子・増田義郎「植民地からの独立」171?179ページ(増田義郎・山田睦男編『新版世界各国史25 ラテン・アメリカ史1T メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社)
^ 英版のen:Jose Maria Morelos#Early lifeにはインディオ、黒人、スペイン人の混血であったと書かれている
出典
中川和彦「ラテンアメリカの独立の動きと先駆的憲法」『成城法学』第61号、成城大学法学部、2000年3月、67-94頁。