メキシコシティ
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そのほかに、南部のソチミルコにはアステカ時代から続く水路などが残っている。しかし、干拓と排水によって陸地化した地域は地盤が弱く、ベジャス・アルテス宮殿やソカロ広場近くの一部の古い建物のように建物自体が沈下しつつある例もある。またこの軟弱な地盤は、1985年メキシコ地震の時に液状化現象を起こし、多くの建物が倒壊する原因となった。
気候

ハワイより南にあり緯度帯は熱帯だが、標高2240mの高原に位置しているため夏の暑さは穏やかである。ただし高地のため一日の気温の変化はやや大きい。5月から10月の雨季と11月から4月にかけての乾季に分かれ、降雨は雨季に集中している。北半球にあるため12月から2月は冬となり、日中の最高気温に変化は無いものの最低気温はやや低くなる。市域の北部から中心部にかけては年600mmから800mm程度の降水量であるが、南部の山岳地帯では年間降水量は1500mmを超える。

メキシコシティの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)21.2
(70.2)22.9
(73.2)25.7
(78.3)26.6
(79.9)26.5
(79.7)24.6
(76.3)23.0
(73.4)23.3
(73.9)22.3
(72.1)22.2
(72)21.8
(71.2)20.8
(69.4)23.4
(74.1)
平均最低気温 °C (°F)5.8
(42.4)7.1
(44.8)9.2
(48.6)10.8
(51.4)11.7
(53.1)12.2
(54)11.5
(52.7)11.6
(52.9)11.5
(52.7)9.8
(49.6)7.9
(46.2)6.6
(43.9)9.6
(49.3)
雨量 mm (inch)11.0
(0.433)4.3
(0.169)10.1
(0.398)25.9
(1.02)56.0
(2.205)134.8
(5.307)175.1
(6.894)169.2
(6.661)144.8
(5.701)66.9
(2.634)12.1
(0.476)6.0
(0.236)816.2
(32.134)
平均降雨日数2.32.13.17.912.717.723.422.818.99.54.42.6127.4
湿度51474143516369697064575456
平均月間日照時間2402342682322251831761761571942322362,555
出典1:World Meteorological Organisation (UN) (30 yr record)[9]
出典2: ⇒Servicio Meteorologico Nacional (sun, RH for 1981?2000)

街並み メキシコシティ中心部からの360度のパノラマ

市の中心は中央広場であるソカロ広場から、その西にある繁華街ソナ・ロサにかけての地区である。ソカロ広場とその周辺はアステカの都テノチティトランと同じ位置であり、テノチティトランを破壊してその上に建設された、建設当時の「メキシコシティ」に当たる地区である。国立宮殿メキシコシティ・メトロポリタン大聖堂(カテドラル)などスペイン統治時代から続く歴史ある建物も多い。また、テノチティトラン時代のアステカ帝国の神殿跡であるテンプロ・マヨール遺跡もこの地区にある。

市の東部はかつてテスココ湖が広がっていたが、現在ではそのほとんどが埋め立てられ一部を残すのみとなり、その跡地には住宅街が広がるようになった。東部にはメキシコ・シティ国際空港があり、また低所得者の多く住むネサワルコヨトル市に接する。

中心部を東西に伸びるレフォルマ通りは、フランス第二帝政メキシコ出兵で即位させた皇帝マクシミリアンがフランスの首都パリシャンゼリゼ通りをモデルに作らせた通りで[10]、高層ビルの立ち並ぶメインストリートとなっている。レフォルマ通りの南に広がるソナ・ロサはメキシコシティ一の繁華街であり、一流ブランドの店が立ち並ぶ。ソナ・ロサの西にはポルフィリオ・ディアス時代に建設された独立記念塔が立ち、さらにその西には小高い丘に作られたチャプルテペック公園が広がる。チャプルテペック公園内にはメソアメリカ文明の遺産を集めたメキシコ国立人類学博物館や、チャプルテペク城などがある。また、この一帯は中所得者層の住宅地区となっている。

南西部から南部にかけては高級住宅街となっており、またメキシコ国立自治大学のある文教地区でもある。南部のソチミルコはアステカ時代から残る水路の広がる水郷となっており、観光用のボートが水路を巡り、多くの観光客が訪れる。この地区は世界遺産にも登録されている。

西部は近年都市開発が進み、ビジネス・住宅地区となっている。西部のサンタ・フェ地区メキシコ大地震[要曖昧さ回避]後に新たに開発が進められたエリアで、高層ビルや超現代的な建築が立ち並び、新たなビジネスの中心となっている。

北部は工業地帯であり、住宅としては低所得者層用が多い。レフォルマ通り沿いにあるトラテロルコ地区はかつてアステカの商業都市であり、現在もその遺跡が残っている。そのそばにスペイン植民地時代の建築が広がり、さらに近年近代的なアパート群が建設されたことから、この地区の中心の広場は三つの文化を眺められる場所として三文化広場と名づけられている。この広場は1968年、学生デモに政府軍が発砲し多数の死者を出したトラテロルコ事件の舞台としても知られる。そのさらに北にあるテペヤックの丘には、グアダルーペ寺院が建っている。ここは1531年12月9日グアダルーペの聖母 (メキシコ)の起きた場所であり、現在でも多くの参拝者が訪れる。
歴史
テノチティトランテノチティトランディエゴ・リベラ

メキシコシティの原型は、アステカ王国の首都であったテノチティトランである。アステカ人がやって来るまで、現在のメキシコシティはテスココ湖が広がるのみであった。13世紀末にメキシコ盆地にやってきたアステカ人は、ウィツィロポチトリ神託に従い、テスココ湖の湖上で干拓を行い、1325年に島を作り上げるとそこに都を築いた。アステカ帝国の拡大に伴いテノチティトランも巨大になり、最盛期には人口は20万人から30万人を数えた。都市から対岸には何本かの土手道が築かれ、中央部にはピラミッドの築かれた壮麗な都市となった。テスココ湖は塩分を含んでいたが、南東部のコヨアカンには湧水があったため南東部は汽水域となっていた。そこで南北の土手道で湖水を遮断することで東部を淡水域化し、テノチティトラン周辺の農業用水とした。また、飲料水は西部のチャプルテペクの丘より石造りの水道橋で供給された[11]15世紀以降、テスココ湖やその周辺では沼地の表面の厚い水草層を切り取り、敷物のように積み重ねてつくった浮島の上に湖底の泥を盛り上げて作ったチナンパと呼ばれる農地が多く作られた。この農法は肥沃な泥と豊富な水が得られることから非常に収量が高く、アステカの国力を支える重要な要素となった。
スペイン領時代1628年のメキシコシティ

1519年にスペイン人のエルナン・コルテス (Hernan Cortes) のメキシコ征服によりテノチティトランは破壊され、その上に現在のヨーロッパ(スペイン)風の都市としてメキシコシティが築かれた。16世紀にはテスココ湖の干拓が行われ、湖はメキシコシティの東部にのみ残ることとなった。1535年にはヌエバ・エスパーニャ副王領が創設されてメキシコシティはその首都となり、北アメリカ大陸南部からカリブ海にかけてを管轄することとなった。この時代にはソカロ広場を中心として現在のメキシコシティの中心部が形成された。1551年9月21日には現在のメキシコ国立自治大学の前身である王立メキシコ大学が新大陸で2番目に古い大学として創設された。スペインの植民地時代を通じてメキシコシティは成長を続け、18世紀には人口は10万人に達した[12]
独立後

メキシコ独立革命中の1821年アグスティン・デ・イトゥルビデの軍がメキシコシティに入城し、メキシコは独立した。同時にメキシコシティは新生メキシコ合衆国の首都となった。しかしメキシコは外国の干渉を度々受け、また数々の内戦でもメキシコシティは占領された。1847年には米墨戦争で敗北してアメリカ軍に占領された。


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