メイン州
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ポパムの開拓者は14か月後にはイングランドに戻った[9]

フランスによって1609年にはペノブスコット湾沿いに、1613年にはマウントデザート島にイエズス会の伝道所が設立された。1613年、クロード・ド・ラ・トゥーアがカスタイン(英語版)開拓地を設立した。1625年にはカスタインを守るためにペンタグー砦(英語版)を建設した。メイン西部の海岸地域が1622年の土地特許で初めてメイン植民地(英語版)と指定された。ケネベック川より北のメイン東部はほとんど入植が行われず、17世紀の間はサガダホク領土(英語版)と呼ばれていた。2回目の入植の試みは1623年のヨークと呼ばれた地だった。イングランド人探検家で海軍軍人のクリストファー・レベット船長が、イングランド王チャールズ1世から、6,000エーカー (24 km2) の土地特許を認められた[10]。この開拓地も失敗した。

メインの中部にはアンドロスコッギン族(英語版)(別名:アロサガンタクック族)が住んでいた。アンドロスコッギン族はアベナキ族に属する部族だった。1690年に起きたウィリアム王戦争のときに、この地を逐われた。彼等はカナダのセントフランシスに移っていたが、その町も1759年にロジャーズ・レンジャーズに破壊され、現在はオダナク(英語版)にいる。アベナキ族に属する別の部族は何度か大敗を喫した。特にラル神父戦争の間には、1724年にノリッジウォックが占領され、1725年にはペクォーケット族(英語版)が敗北して、その人口を大きく減らした。彼等も最後はカナダに逃避し、ベカンコーやシラリーに入り、後には南から逃げてきた他の部族と共にセントフランシスに入った[11]

1652年、現在のメインはマサチューセッツ湾植民地の一部となった。17世紀と18世紀初期は、フランスとイギリスがその同盟インディアンと共に覇権を競い、互いに襲撃を繰り返し、身代金目当てに捕虜を取り、あるいはインディアン部族の中で養子にした。1692年初期、アベナキ族がヨークを襲撃し、約100人のイングランド人開拓者を殺し、推計80人の村人を捕虜にした[12]。1700年代初期のアン女王戦争では、アベナキ族がマサチューセッツに対する襲撃で捕まえた捕虜を、モントリオールに近いカトリック教徒モホーク族の集落であるカーネワケまで連れて行き、そこで養子にした者もあれば、身代金と交換された者もいた[13][14]

1740年代にイギリスがアカディアでフランスを破った後、ペノブスコット川より東の領域はノバスコシア植民地の支配下に入り、現在のニューブランズウィックと共にノバスコシアのサンベリー郡となり、郡庁はカンポベロに置かれた。アメリカ独立戦争米英戦争のとき、アメリカの愛国者とイギリス軍がメインの領土を巡って争った。どちらの戦争でも、イギリス軍がメイン東部を占領した[15]。1783年9月3日、パリ条約が調印された結果としてアメリカ独立戦争が終わり、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。しかし、メインとイギリス領北アメリカの境界は曖昧なままだった。アメリカ合衆国が形成されたときに、メインはマサチューセッツ州の一部と確認されたが、最終的にその境界が確立されたのは、1842年のウェブスター=アッシュバートン条約によってだった。

メインはマサチューセッツ州の本土とは物理的に離れていた。土地投機や入植に関して長い間意見の不一致があり、メインの住民とこれに同調するマサチューセッツ州民が、1807年のマサチューセッツ州議会でメインを分離する提案を行った。その票決では提案が否決された。1812年に始まった米英戦争のときに、マサチューセッツ州のイギリス寄り商人達が戦争に反対し、イギリスによる侵略からメインを守ることを拒否したので、メインにおける分離を求める感情が大きくなった。1819年、マサチューセッツ州はメイン州の住民投票で承認されれば、メインの分離を認めることに合意した。人口が急増していたメインはこれを受けて1820年に住民投票を実施し、マサチューセッツ州からの分離を承認した。当時、全国的には奴隷制度の拡大に地理的な制限を設ける動きがあり、ミズーリ州の州昇格と引き替えに奴隷州と自由州のバランスを取る必要があった。その結果として出来たミズーリ妥協の一部として、メインは1820年3月15日にマサチューセッツ州からの分離を認められ、合衆国23番目の州に昇格した[16][17][18]

メイン州の当初の州都は人口最大の都市であるポートランド市にあったが、1832年に州の中央に近い都市としてオーガスタ市に移された。

南北戦争ゲティスバーグの戦いでは、ジョシュア・ローレンス・チェンバレン大佐の指揮するメイン第20連隊がリトルラウンドトップを死守した。北軍南軍から側面を攻撃される可能性を防いだ。

アメリカ海軍では、メイン州に因んで4代の艦船が「メイン」と名付けられてきた。
政治と法律関連項目:メイン州知事の一覧、List of United States Senators from Maine、List of Maine State Senators、及び As Maine goes, so goes the nation

メイン州憲法により、行政府、立法府、司法府が分立した州政府の構造を決めている。憲法に定める州の役職は州務長官、州財務官、州検事総長である。法定の役職として州監査官がある。

立法府はメイン州議会であり定員151人の下院と、同35人の上院の両院制である。議会は法を提案し、承認する。

行政府は議会で成立した法を執行する責任があり、メイン州知事が首長である。州知事は4年間任期で選ばれ、連続2期を超えては就任できない。知事には法に対する拒否権があるが、両院の3分の2以上の賛成があれば、覆すことができる。副知事を持たない7州の1つである。

司法府は州法を解釈する責任がある。裁判所の最上位にあるのがメイン州最高裁判所である。下級裁判所には地方裁判所、上級裁判所、検認裁判所がある。検認裁判所を除いて全ての判事は専任であり、州知事が指名し、議会が確認する。任期は7年間である。検認裁判所判事は非常勤であり、各郡の選挙民が4年間任期で選出している。
州と地方の政治

州の一般選挙では、他の州よりも無所属や第3政党系の候補を受け入れることが多い。1975年から1979年のジェイムズ・B・ロングリーと1995年から2003年のアンガス・キングは無所属の州知事だった。共和党民主党の二大政党の場合も、他州より中道的な政治家が多い。

現在、メイン州においては、死刑制度は廃止されている。またアルコール飲料の統制州である。

2009年5月6日、同性結婚を合法化した15番目の州になった。しかし、この法は2009年11月3日の住民投票で否決された。2012年11月6日、メイン州は、メリーランド州、ワシントン州と共に住民投票で同性結婚を合法化した最初の州になった[19]
国政

大統領選挙の結果[20]民主党共和党
2016年47.85% 352,48545.15% 332,591
2012年56.27% 401,30640.98% 292,276
2008年57.71% 421,92340.38% 295,283
2004年53.57% 396,84244.58% 330,201
2000年49.09% 319,95143.97% 286,616
1996年51.62% 312,78830.76% 186,378
1992年38.77% 263,42030.39% 206,504
1988年43.88% 243,56955.34% 307,131
1984年38.78% 214,51560.83% 336,500
1980年42.25% 220,97445.61% 238,522
1976年48.07% 232,27948.91% 236,320
1972年38.48% 160,58461.46% 256,458
1968年55.30% 217,31243.07% 169,254
1964年68.84% 262,26431.16% 118,701
1960年42.95% 181,15957.05% 240,608

1930年代、メイン州は共和党支持を維持した数少ない州の1つだった。1936年アメリカ合衆国大統領選挙では、フランクリン・ルーズベルトを支持しなかったのはバーモント州とメイン州だけだった。ルーズベルトが出馬したどの大統領選挙でも、支持しなかったのはこの2州だけだった。ただし1940年1944年の場合はかなりの接戦だった。


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