メイフラワー号
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さらに Philbrick は、彼らが数週間かけてプロビンスタウンから海岸沿いに南下してイーストハム付近まで探検し、先住民の貯蔵していたものを略奪したとしている[12]。1620年12月、アメリカ先住民であるノーセット族との友好的とは言えない遭遇(その場所は今では First Encounter Beach と呼ばれている)を経て、彼らが湾の対岸のプリマスへ移ることを決めた経緯が Philbrick によって描かれている。

一方ブラッドフォードの History of Plymouth Plantation によれば、かれらはトウモロコシを見せるために少しだけ船に持ち帰ったとしている。その後、必要な穀物を別の貯蔵穴から頂戴し、6カ月後に先住民に代価を支払ったとき、彼らは喜んでそれを受け取ったと記している。

冬の間、乗客らはメイフラワー号の船内で過ごし、壊血病肺炎結核などの病気が発生した[1]。その冬を生き延びたのは約半数の53人で、乗組員も約半数が死んだ[1]。春になると彼らは海岸に小屋を建て、1621年3月31日(3月21日)に入植者らはメイフラワー号を離れた[1]

1621年4月15日(4月5日)、メイフラワー号はプリマスからイングランドへと出航[1]、5月16日(5月6日)に到着した。
乗客

メイフラワー号がイングランドを離れたとき、乗組員と102名の乗客が乗船していた。航海中に男子が1名生まれ、2人目は1620年から1621年にかけての冬の間に生まれた。また、航海中に子供が1人死んだが、植民地建設中にさらに1人生まれている。乗客の中心はピルグリム・ファーザーズだが、他にもロンドンの商人が手配してバージニア入植地に送り込もうとした労働者、使用人、農夫などもいた。

生き残った乗客はイギリスからニューイングランド地方への最初の永久移民となった。
2代目メイフラワー号

1629年、2代目メイフラワー号がロンドンからプリマス植民地に35人の乗客を届けた。その多くは1回目の航海計画にも関わったライデンの清教徒たちである。これは最初の航海で使われたメイフラワー号とは異なる船だった。このときの航海は5月に出航し、プリマスには8月に到着した。この船はその後も1630年、1633年、1634年、1639年に大西洋を往復している。1641年、ジョン・コール船長の指揮でロンドンからバージニア入植地に向けて140人の乗客を乗せて出航したが、行方不明になった。1642年10月18日、同船の喪失がイギリスで宣言された[13]
メイフラワー2世号メイフラワー2世号(プリマス)

第二次世界大戦後、メイフラワー号の航海を再現しようという動きが生まれた。海軍の設計士 William A. Baker によりなるべくオリジナルを忠実に再現した船が設計され、イングランドのデヴォンで1956年9月22日に進水し、1957年春に出航。アラン・ビリエ船長指揮下、1957年6月13日にプリマスの港に到着し、大歓迎された。

この船は今もプリマスの港に係留されていて、一般公開されている[14]
ポップカルチャー

プリマス・アーガイルFCのエンブレムにはメイフラワー号がデザインされている。

ボブ・ディランのアルバム『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』に収録された曲「ボブ・ディランの115番目の夢」の歌詞にはメイフラワー号が出てくる。

ザ・ビーチ・ボーイズの伝説的未発表アルバム『スマイル』に収録予定だった「ロール・プリマス・ロック」は、ピューリタンを乗せたメイフラワー号が、米国マサチューセッツ・プリマス到着時、最初に踏んだとされる岩プリマス・ロックを題材に、アメリカの開拓史を皮肉った曲。後にリーダーのブライアン・ウィルソンが、ソロで同名のアルバムを発表し再現された。

イエスのメンバージョン・アンダーソンヴァンゲリスジョン・アンド・ヴァンゲリスという音楽ユニットを組み、アルバム「フレンズ・オブ・ミスター・カイロ (en)」に "The Mayflower" という曲を収録している。

メイフラワー号の航海を描いた映画として、Plymouth Adventure (1952年) がある。

映画『フライングハイ2/危険がいっぱい月への旅』に登場するスペースシャトルは Mayflower One と呼ばれていた。

メイフラワー号の船内を描いた舞台作品として『メイフラワー (宝塚歌劇)』(1983年初演)がある。

米ドラマ『THIS IS US/ディス・イズ・アス36歳、これから』のなかで、メイフラワー号に乗ってアメリカにやってきた入植者リックという登場人物の設定がある。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ イングランドでは当時ユリウス暦を、ヨーロッパ本土ではグレゴリオ暦を使っていた。そのため、文献には両方の日付が見られる。ここでは混乱を避けるためグレゴリオ暦の後にユリウス暦を括弧つきで表記する。
^ なお、スペイン人の新大陸入植はイギリス人よりも早く、1565年にはフロリダ半島セントオーガスティン入植地を、また1610年にはヌエボ・メヒコ植民地(現ニューメキシコ州)の首都サンタフェをそれぞれ建設している。

出典^ a b c d e f g h i Moritz, Bjoern (2003年). “ ⇒The Pilgrim-Fathers’ Voyage with the 'Mayflower' (history)”. ShipsOnStamps.org. 2010年11月11日閲覧。
^ Philbrick 2006, pp. 4?5
^ a b Philbrick 2006, p. 24
^ a b c “ ⇒Crew Genealogy”. Mayflowerhistory.com. 2008年9月24日閲覧。
^ “The Mayflower after the Pilgrims”. MayflowerHistory.com. 2008年9月24日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2008年9月25日閲覧。
^ “ ⇒John Alden (history)”. Pilgrim Hall Museum (1998年7月14日). 2008年9月16日閲覧。
^ a bPress Kit - Mayflower II (with history of the Mayflower). Plimouth Plantation Museum. (2004). ⇒http://plimoth.org/press/mayflowerBG.php 
^ Usher 1984, p. 67
^ “ ⇒Plaque in Newlyn, Cornwall”. www.penzance-town-council.org.uk. 2008年9月24日閲覧。
^ Philbrick 2006, pp. 61?62
^ Winslow, Edward; William Bradford (1622). ⇒A Relation or Journal of the Beginning and Proceeding of the English Plantation Settled at Plymouth. London, England: John Bellamie. pp. 8?10. ⇒http://www.mayflowerhistory.com/Library/primarysources.php 


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