メアリー_(スコットランド女王)
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摂政には、ジェームズ2世の曾孫の第2代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任した。それからイングランド国王ヘンリー8世の要求により、メアリーは当時王太子だったエドワード6世と婚約させられた。1547年、イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け、迎撃に出たアラン伯が敗れる事態になった。1548年、王母メアリーの提案でメアリーはフランスアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられた。
フランス王妃1558年、フランソワとメアリー

1558年4月24日、メアリーはアンリ2世の王太子フランソワと結婚式を挙げた。同年11月17日、父の従妹(従叔母)でエドワード6世の姉に当たるエリザベス1世がイングランド女王に即位すると、アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議した。さらに、1559年9月にはフランスとイングランドの講和条約締結の後に、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、イングランド王位継承権者であることを示す紋章を発表し、エリザベスを激怒させた。

7月10日にアンリ2世が亡くなると、王太子がフランス王フランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃となった。この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入して、フランス海軍は大打撃を受けた。7月6日、エディンバラ条約が結ばれ、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止と、先の紋章の使用禁止が謳われたが、メアリーは実際にはその後もこの紋章を使用し続けた。イングランド国内においても、エリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がおり、女王の政権は不安定なものであり、メアリーがエリザベスを「庶子」と主張して自らの王位継承権を言い立てることは、エリザベス個人の不興にとどまらず、政権を揺るがす政治的問題であった。

またローマ教皇を含む多くのカトリックは、実際にメアリーがイングランド女王であると考えていた。
帰国と親政、再婚問題フランスを去るメアリー(19世紀、ロバート・ヘルトマン画)

1560年12月5日、フランソワ2世が16歳で病死した。子供ができなかったメアリーは、翌1561年8月20日にスコットランドに帰国した。メアリーは父の庶子で異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問とした。当時のスコットランドは宗教改革が進み、多くの貴族がプロテスタントに改宗していたが、カトリックの貴族も相当数残っていた。マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントであったが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を図った。1562年の夏には、カトリック貴族では最有力のゴードン家がメアリーに反乱を起こした。これはマリ伯により鎮圧された。

メアリーは再婚相手について検討を始めた。候補として名前が挙がったのは、オーストリアのカール大公スウェーデンエリク14世デンマークフレゼリク2世、フランスのヌムール公ジャック・ド・サヴォワなどだった。中でも特にメアリーが関心を示した相手は、有力なカトリック国スペインの国王フェリペ2世の息子ドン・カルロスであった。しかし、カトリーヌ・ド・メディシスやエリザベス1世に政治的な動機で妨害されるなど、様々な理由から、いずれの相手とも結婚に至ることはなかった。

やがてメアリーは、1565年2月18日に出会ったステュアート家傍系の従弟ダーンリー卿ヘンリーとの結婚を考えるようになる。
ダーンリー卿ヘンリーとの再婚

ダーンリー卿ヘンリーは、メアリー女王と同じくイングランド王ヘンリー7世の王女マーガレットの孫であり、テューダー家の血を引いている。加えて、カトリック教徒であった点も、メアリーにとっては都合が良かった。

                     

                ヘンリー7世 

                         
                     
  マーガレット           ヘンリー8世 メアリー   

                              
                 
スコットランド王
ジェームズ5世
 マーガレット メアリー1世 エリザベス1世 エドワード6世 フランセス 

               

スコットランド女王
メアリー1世 ヘンリー    ジェーン・グレイ
  
                     

  ジェームズ1世
=スコットランド王 同6世
              

                     

 (ステュアート朝) 


しかし、この結婚にもマリ伯やエリザベス1世が強硬に反対した。特にエリザベス1世は、イングランドの有力な王位継承権を持つダーンリー卿との結婚によって、メアリーの王位継承権が強化されることを恐れた。そこでダーンリーにすぐさまイングランドに戻るよう命令し、従わないと反逆罪と見なすとして、ダーンリー卿の母マーガレット・ダグラス(マーガレット・テューダーの娘でジェームズ5世の異父妹、エリザベス1世の従姉)をロンドン塔に幽閉したが、ダーンリー卿は従わなかった。しかし、エリザベス1世と首相のウィリアム・セシルは、性格的に弱いダーンリー卿をスコットランドに送り込むことにより、スコットランドの国力低下を計ろうとしたという説もある。

1565年7月29日、メアリーはダーンリー卿ヘンリーと再婚した。メアリーはヘンリーに対し、王族にしか与えられなかったロス伯、オールバニ公の位を与え、また王位継承もあらためて与えるなどして、多くの貴族の反感を買った。しかし、両親から甘やかされてきたヘンリーの傲慢な性格がわかるにつれて、メアリーの愛情も冷めていった。やがてピエモンテ人の音楽家で、有能で細やかな気づかいをする秘書のデイヴィッド・リッチオ(英語版)を寵愛し、重用するようになった。
王子誕生とリッチオ殺害事件リッチオ殺害事件(19世紀、ウィリアム・アラン画)

1565年8月1日、マリ伯がエリザベス1世からの援助を取り付け、1200人の兵力を集めてメアリーに反乱を起こした。メアリーはこの反乱を鎮圧するため、ゴードン家にも恩赦を与えて地位を回復させた。マリ伯の期待していたイングランドからの援軍は現われず、スコットランド南部でボスウェル伯率いるスコットランド軍に敗北し、彼はイングランドに亡命した。


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