メアリー2世_(イングランド女王)
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また、オランダに亡命していた従兄のモンマス公ジェイムズ・スコットを夫と共に歓待している[2]
名誉革命、帰国と即位

1685年に伯父チャールズ2世が亡くなり、父ジェームズが後を継いでイングランド・スコットランド王に即位した。当時のイングランドの貴族や議会はほとんどプロテスタントであり、カトリックを重用するジェームズ2世と事あるごとに対立した。ジェームズ2世がそれまでなかった常備軍を新設するにおよんで国王と議会の対立は頂点に達し、議会はジェームズ2世追放とオランダに嫁いでいたメアリーの擁立に傾き、夫ウィレムもオランダ軍を率いてイングランドへ侵攻することに同意する。

メアリーはカトリック化政策を取る父を諫め、1686年に父と対立して資格停止処分となったコンプトンの処分撤回を求めたり、1687年に父からカトリックへの改宗を勧められた時は拒絶している。一方で夫からイングランド遠征の話を聞かされると了解したが、継母から異母弟ジェームズ・フランシス・エドワードの誕生を祝う手紙や、イングランド遠征に協力して父に逆らうのではと疑う手紙を送られた際、曖昧な返事を出している。

1688年、ウィレムの率いるオランダ軍の出航を見届けてオランダに待機、オランダ軍はなんら抵抗を受けずにイングランドへ上陸し、ジェームズ2世の常備軍司令官も無抵抗のまま降伏した。ジェームズ2世はロンドンからケントまで逃れたところを捕らえられたが、メアリーの立場を考慮して、処刑されることなくフランスに追放された(処刑すれば殉教者として同情が集まるという判断もあった)。

メアリーは翌1689年2月に渡英して帰国、最初はハンプトン・コート宮殿に住んだが、ウィレムの健康問題からケンジントン宮殿に移住した。以後、メアリーは死ぬまでイングランドに留まることになる。

当初イングランド議会はメアリーの即位だけを望んだが、ウィレム3世が難色を強く示し、またメアリーが共同統治を望む手紙をウィレムに送った。そこで議会も、ウィレムがオランダ総督を兼ねたままウィリアム3世として女王メアリー2世と共にイングランド、スコットランド、アイルランドの王位に即くことに同意した。こうしてウィリアムとメアリーの共同統治が始まった。イングランドでは流血を見ることなく革命が成立したのでこの政変を名誉革命と呼ぶようになった[3]
共同統治者時代

フランスに追放されたジェームズ2世は革命後、フランス軍の支援を得てカトリックのアイルランドに上陸し、ジャコバイトを率いてイングランドに対する反乱に立ち上がらせた(ウィリアマイト戦争)。スコットランド高地地方でも反イングランドの反乱が起こり、ウィリアム3世はこれらの反乱鎮圧のために出陣し、本国オランダも大同盟戦争でフランスと戦争していたので、ほとんどロンドンにいなかったため、イングランドの留守はメアリー2世が預かる形となった。

メアリーには政治的な手腕があったとされ、1690年にウィリアムがアイルランドへ出陣した時は彼が任命した顧問団と共に留守を任され、その間にイングランド・オランダ連合艦隊がフランス艦隊と交戦してビーチー・ヘッドの海戦で大敗すると、この戦いで見捨てられた形のオランダに対しては謝罪し、責任者のトリントン伯アーサー・ハーバートを捕らえてロンドン塔へ送り、イングランド国民の団結を図った。ウィリアマイト戦争終結後もウィリアムは大同盟戦争で大陸に出陣したため、引き続き不在のイングランドを顧問団と共に統治した。

ウィリアムとの間に子供は生まれなかったため(3度とも流産)、後継者は妹のアンに決まっていたが、アンとは居住区画の拡大と財産分与の問題を巡って関係が悪化し、背後に女官サラ・ジェニングスが影響力をおよぼしているのに気づき、1692年にアンにサラの解任を求めた。アンからは拒否され絶交となり、サラの夫で軍人のマールバラ伯ジョン・チャーチルはウィリアムに解任された。アンはサラと共にサマセット公チャールズ・シーモアエリザベス・シーモア夫妻から借りたロンドン郊外のサイオン・ハウスに移り住み宮廷から背を向け、メアリーも同年に生まれたアンの子供が夭折した時にアンの見舞いに訪れた後は、二度と会おうとしなかった。

1694年、メアリー2世はケンジントン宮殿で天然痘により崩御し、以後はウィリアム3世の単独統治となった。メアリーの崩御後、ウィリアムとアンは和解してマールバラ伯夫妻も宮廷に復帰、1702年のウィリアムの崩御後、権利の章典の取り決めによりアンが即位した[4]
王位継承の家系図ステュアート朝の家系図


          ロバート1世

                         
            
  ウォルター・ステュアート マージョリー・ブルース デイヴィッド2世 マーガレット・ドラモンド ジョン・ドラモンド
   
                       

エリザベス・ミュア (1)ロバート2世               
  
                        
              
  (2)ロバート3世 アナベラ・ドラモンド  
  
                      
          
    (3)ジェームズ1世 ジョーン・ボーフォート     ジョン・ボーフォート
  
                     

  メアリー・オブ・グエルダース (4)ジェームズ2世       マーガレット・ボーフォート
  
                      
         
マーガレット・オブ・デンマーク (5)ジェームズ3世     メアリー・ステュアート ヘンリー7世
  
                                   
                          
  (6)ジェームズ4世 マーガレット・テューダー アーチボルド・ダグラス    ヘンリー8世         メアリー・テューダー
    
                                    
          
メアリー・オブ・ギーズ (7)ジェームズ5世 マーガレット・ダグラス マシュー・ステュアート メアリー1世 エリザベス1世 エドワード6世 フランセス・ブランドン


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