メアリー・オブ・テック
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弟のジョージ・フレデリック(後のジョージ5世)は、同年5月24日に、女王誕生日叙勲によりヨーク公イングランド)、インヴァネス伯爵スコットランド)、キラーニー男爵アイルランド)に叙爵され、名実ともに王位継承者とされた。突如として王位継承者になったジョージは、若くして婚前未亡人となったメイを気遣い、兄エディから王位を引き継ごうと考え、これは女王とも同意見だった[8]1893年5月3日、ジョージは妹ファイフ公爵夫人ルイーズ王女の邸宅で、メイに求婚し、メイは受諾した[8]

メイの花嫁道具等は、母方の伯母アウグスタ(英:オーガスタ)の嫁ぎ先であるメクレンブルク=シュトレーリッツ大公家が工面した[3]。同年7月6日セント・ジェームズ宮殿の王室礼拝堂で、二人は結婚式を挙げた。

結婚後、サンドリンガムに定住した2人は5男1女をもうけた。長男には、女王から亡きアルバート王配から「アルバート」と付けるよう要望があったが、亡きエディから「エドワード」を洗礼名とし、イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ全てからの守護聖人を名付けた[9]。次男はアルバート王配の命日に誕生し「アルバート」と名付けた[9]。ジョージは、奔放な父アルバート・エドワードとは異なり、愛人を作らず、円満な家庭生活を送った[10]

気丈な性格で、良くも悪くも王室のしきたりを頑ななまでに守り続けたメイは、小姑のファイフ公爵夫人ルイーズや姑のアレクサンドラ王太子妃とは価値観や性格の不一致から不仲だったが、ヴィクトリア女王やエドワード7世など王族の人間からは信頼を寄せられていた。

20世紀が開幕して早々、1901年1月22日にヴィクトリア女王が崩御し、その長男であるエドワード7世が即位した。ジョージはプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)、メイはプリンセス・オブ・ウェールズ(王太子妃)となることになる。
王太子妃時代カナダ訪問の公式日程表の表紙

女王崩御に先立つ1901年1月1日、英国の植民地だったオーストラリアは6つの植民地が統合された連邦として自治権を与えられており[11]、その第1回目の議会[注釈 2]開会式にジョージは女王の名代として臨席する予定だった[13]。オーストラリアの保守政権の強い要望によって訪豪は予定通り行われることとなり[13]、ジョージとメイは女王の葬儀にも参列しないまま、同年3月、オーストラリア及びニュージーランドカナダも含む海外自治領(ドミニオン)への旅に出発した。夫妻は11月1日に帰国し、11月9日の国王誕生日に、ジョージは正式に王太子に叙された[14]

王太子夫妻は、1905年10月から翌1906年3月まで、インドを訪問した[15]

1910年にエドワード7世が崩御すると、夫妻はジョージ5世国王と「メアリー王妃」となった。メイは、ファーストネームのヴィクトリアを用いなかった[16]
王妃時代
即位と外遊1911年撮影、戴冠式に際し

1911年6月22日、ジョージ5世夫妻は戴冠式を執り行った。さらに、ジョージ5世の提案により、新たに「インド帝冠(英語版)」を作成させた上で、翌1911年12月12日デリーで戴冠式(大謁見式:ダーバール)を執り行った[17]。メアリー王妃には、デヴォンシャー公爵夫人イヴリン(英語版)や寝室付き女官(英語版)シャフツベリ伯爵夫人コンスタンス(英語版)らが同行し、大掛かりな訪問となった[18]

1912年は、アイルランド独立問題が表面化して外遊は無く、翌1913年5月14日はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(ジョージ5世の従兄)の長女ヴィクトリア・ルイーゼ皇女の結婚式のためベルリンを訪問したが、公式訪問ではなかった[19]

1914年4月にジョージ5世は、初の公式訪問先に英仏協商10周年記念として、フランスのパリを選んだ[20]。外国語や外交の苦手な国王を、フランス語に堪能なメアリー王妃が支えた[20]
第一次世界大戦1917年撮影、西部戦線に近いトラムクール(英語版)にて、ベルギー国王アルベール1世エリザベート王妃とともに

ジョージ5世の外交デビューから間もない、1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公が、セルビア人青年に暗殺された(サラエボ事件)。フランツ・フェルディナント大公の妻ゾフィ―は、貴賤結婚によりヨーロッパ各国で王族としての処遇を受けられなかった。英国も、ヴィクトリア女王の崩御以来、葬儀や戴冠式で冷淡な扱いをしてきたが、1912年と1913年の大公夫妻の訪英時に、ジョージ5世とフランツ・フェルディナント大公が打ち解け、またメアリー王妃も自身の出自からゾフィ―を厚遇したところ、同国との関係は改善の兆しを見せていた矢先だった[21]

事件後、ジョージ5世は、従兄ヴィルヘルム2世と従弟ニコライ2世の対立を収めることはできず、同年7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告した。各国の同盟関係を基に、英国も三国協商側で参戦が不可避となりつつあった。8月2日、ドイツ帝国はベルギー王国を通過する旨を通告する。翌8月3日夕方、英国は参戦派のエドワード・グレイ外相の演説が喝采を浴び、同日夜には国王夫妻及びエドワード王太子バッキンガム宮殿のバルコニーに立って国民に応えた[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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