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出典検索?: "ムーミン" アニメ
東京ムービーの契約終了に伴い、第27話『顔をなくしたニンニ』からは新たに虫プロダクションが制作会社として参加した。同社が制作を手掛けるに当たっては、キャラクターデザインを原作の絵に近付ける形でスマートにしたり、スノークのお嬢さん(ノンノン)のリボンを外したり、自動車の使用を控えたりするなど、スタッフはトーベの要望に沿って放送を試みることにした。しかし実際に放送されると、終了後から問い合わせなどが殺到し始めた。
視聴者からは「キャラクターが怖くなった」「つまらなくなったのはなぜ?」「どうしてムードが変わったの?」という意見が出たり、ラジオの深夜放送の投書にも「面白くなくなったのはなぜ?」「なぜ絵を変えたの?」と著しい不評が寄せられた。東京ムービー期の出来に満足していた提供会社のカルピスの役員たちも、第27話を視聴して非常に激しい不満を持った。そのためキャラクターデザインは「日本国内でのみ放送する」という条件で東京ムービー期に近いものへ戻された[注釈 2]。 トーベ・ヤンソンは、アメリカのカートゥーン(アニメーション)や西部劇のテレビ放送などを野蛮に思っていたようで、それらの要素をアニメ化すると本シリーズも野蛮になっていくというおそれを感じていたという[11]。実際は原作でもキャラクターが悪さをする場面があり、自動車も登場するが、1969年版の脚本家・山崎忠昭の著書『日活アクション無頓帖』[要文献特定詳細情報]に掲載された、トーベの手紙の全文翻訳では、「出発点、即ち、ムーミン谷、ムーミン的考え方すべてが違って表現されている」に始まり、「ムーミンは蝶を虫取り網で捕まえたりしません。蝶が自然に捕まるか、逃げるに任せます」「(スノークの)自動車は使うべきでない」「(本シリーズに)都会は不向き。彼らは現代社会には生きてはいない」「ムーミン家の内装を変えて欲しい。広すぎてガランとしている。事務所のようにみえる」「手を伸ばさないと出来ないならば、ギターの演奏は止めて欲しい」「ママは常にハンドバッグ、パパはステッキを持つこと」など、作品世界の文化から各登場人物の持ち物・服装・生活様式に至るまで、こと細かに要望が書き連ねられている。「スノークのお嬢さん」に名付けた「ノンノン」という名前も、「no」や「non」という否定的な響きに受け取れるとしていた[注釈 3]。 東京ムービー制作期の大塚康生によるキャラクターデザインは、原作小説の挿絵をベースとしつつも大胆にアレンジしており、動きのかわいさや絵の丸みを大切にマシュマロのような柔らかさをもって描かれていた[12]。当時の視聴者にはこの丸みを帯びたキャラクターデザインが「かわいい」と受け入れられたが、トーベにはシャープさに欠けると不評だったようである[13]。また、角ばった顔[注釈 4]と彩色が灰色なため「(設定では本来は妖精であるはずの)ムーミンは河馬(カバ)」という勘違いの材料のひとつだったことも指摘されている[14]。 虫プロ制作期に作画で参加した森田浩光によると、トーベとは何度か話し合いの場が設けられたといい、トーベ自身が虫プロに出向いたこともあった。だがトーベの要望は、日本の風土に合わないと判断され採用されなかったものもあり(スナフキンやミイの素手を(黒い手袋をはめて)黒くしてほしいなど)、トーベは「これ(同作品)を海外で売る場合は、トーベヤンソン原作のムーミンとして売ることは認められない」と言っていたという[15]。 1969年版はもとより、1972年版でデザイン変更をさらに試みても、なおヤンソン側からは「日本国内はともかく、外国での放送は認めません」[16]の一点張りだったと言われている。その一方で、トーベは本シリーズを全否定していたわけではなく、水や空などの背景を「カラー効果が上手くでている」と褒めたり、来日時に「日本的なムーミンもあってもよいと考えるようになりました」と発言し[17]、晩年には「自分の描いたムーミンと違っていても子供たちが喜ぶならそれでいい」と本シリーズを肯定する発言もしていた[18]。 1971年には、1972年版の放送開始記念にトーベが親友のトゥーリッキ・ピエティラ教授と一緒に日本に招かれた際、当時日曜に再放送されていた1969年版を見せないよう、放送する時間帯に高橋社長がトーベをホテルから連れ出して鎌倉の海岸に誘い出したり策を練っていたという逸話がある[9]。 このように原作者は不満を持っていたものの、視聴者の子供や親からは好評を得て、後述の『楽しいムーミン一家』放送前日までは再放送が繰り返され、ズイヨー(瑞鷹)監修のキャラクターグッズやレコード・ビデオなども発売されたり、1973年から長期にわたってキャラクターがトヨタ自動車の交通安全キャンペーンに用いられる[19][注釈 5]など長く愛された。そのため、原作の「スノークのお嬢さん」を「ノンノン」と認識している世代も多い。 1990年に『楽しいムーミン一家』が放送されて以降、日本国内では再放送やソフト化を始めとする本シリーズの二次利用は一切行われておらず。ムーミンキャラクターズ社の意向で、基本的に非公開とされている。 トーベの姪で、ムーミンの著作権を一括管理するムーミンキャラクターズ社の代表であるソフィア・ヤンソンは、本シリーズについて「このアニメの製作者たちは、トーベが認めなかった大きな自由を手に入れました。このシリーズには、とりわけ、ムーミンの世界に属さない暴力[注釈 6]や状況が含まれていました。登場人物も、トーベが創り出す世界とは見た目も色も違っており、内容だけでなく、形も大きく異なっていました」としている。また、ソフィアは「新作品の公開に依って、本作品を非公開としたのはトーベの意向である」と述べており、「日本人はトーベの決定に失望しました。(原作の)ファンでさえこのシリーズを愛していました」と語っており、ソフィア自身も本シリーズは見たことがないという[20]。 その一方、本シリーズでキャラクターデザインを担当していた大塚康生は、21世紀初頭でも台湾では本シリーズが繰り返し再放送されていると証言している[21]。 また、トヨタ自動車では2002年まで、「春の交通安全キャンペーン」の幼児向け交通安全教材として[22][23][24]、本シリーズの設定を使用したムーミンの絵本と紙芝居を配布していた[注釈 7][25]。 本シリーズの主題歌の『ねえ、ムーミン(ムーミンのテーマ)』などは2020年現在も、ムーミン関係のテレビ映像で使用されることがある。 2018年1月に行われた大学入試センター試験の「地理B」で出題された「アニメーションの舞台となった国」に関する問題で、本シリーズのワンカットが使用されている[26]。 2020年、ドキュメンタリー特番『成功の遺伝史』(3月2日放送分)にて、本シリーズの音楽を担当した宇野誠一郎が特集された際には、1972年版の本編映像が併せて使用された。 2022年現在、英語版のムーミン公式サイト
原作者の不満
現在
登場人物詳細は「ムーミンの登場人物」を参照
1969年版から登場するキャラクター※(/)は初登場話。左が1969年版、右が1972年版。
ムーミントロール - 岸田今日子(1話‐/1話‐)
ムーミンパパ - 高木均(1話‐/1話‐)