ムンバイ
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ムンバイ新市街として建設されたナビムンバイ(新ボンベイ)やムンバイの衛星都市として発展してきたターネーなど周辺の大都市をも含めた都市圏人口は、2016年時点で2,288万人であり、世界第6位の巨大な大都市圏を形成している[4]。2014年のムンバイの域内GDPは1508億ドルで国内でデリー首都圏に次ぐ規模[1]。人口の増加は、2035年までに700万人以上が増加すると予想されており、現状でも住宅や道路、上・下水道などのインフラの整備が追い付かない状況が、今後さらに悪化すると見られている[5]

日本の民間研究所2016年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界39位と評価された[6]。また、アメリカのシンクタンクが2016年に発表した世界都市ランキングにおいて、世界44位と評価されており、インドでは首都ニューデリーを上回り首位である[7]。天然の良港に恵まれていることもあり、国全体の海上貨物の半数以上を担う港湾都市でもある。

ムンバイは国内随一の商業及び娯楽の中心都市であり、国全体のGDPのうち5%、工業製品の25%、海運の40%、資本取引の70%を計上する。国際金融フローにおいては、アジア有数の金融センターとして、インド準備銀行ボンベイ証券取引所、インド国立証券取引所といった官民の金融機関をはじめ、多くのインド企業の本社や多国籍企業の主要拠点が置かれる。ビジネス機会が豊富なムンバイには、より大きな事業機会や比較的高い生活水準を求め国内各地から多くの人が集まり、様々な宗教・文化の集積地ともなっている。
歴史カーンヘーリー石窟群のブッタ像シャンカール石窟英雄シヴァージー銅像ハジアリ廟ポルトガルの城塞主要記事:History of Mumbai

ムンバイの歴史は古く紀元前までさかのぼる。マウリヤ朝サータヴァーハナ朝ラーシュトラクータ朝デリー・スルターン朝等の時代の変遷と共に、歴史を経てきた。1534年グジャラート・スルターン朝バハードゥル・シャーからこの地域を譲り受けたポルトガルが、ゴアの補助港としての小島に城塞を築き、キリスト教会を建て、ここを「ボンベイ」と呼んだ。この名はポルトガル語のボン・バイア(良港)に由来するといわれるが、それ以前からこの地の呼称として使用されていた「ムンバイ」という名は、当時漁民の信仰をあつめていたシヴァ神妃パールヴァティーの異名、ムンバによるとの説がある。当時は北からパレル、マヒーム、ウォルリ、マザガオン、ボンベイ、小コラバ、コラバの7つの島からなっていた。

1661年ポルトガルカタリナ王女イギリスチャールズ2世と結婚する際、ボンベイは持参金としてイギリス側に委譲された。その植民地時代にはボンベイ管区の中枢として、城塞の中に公会堂・税関などさまざまなイギリス風の施設が建設された。1668年、英国王家はこれを10ポンドでイギリス東インド会社に貸し付け、対岸に良港があったことから1687年にはインドにおける拠点となり、それまでの海軍の基地であったスーラトは 17世紀後半にマラーター王国シヴァージーによる攻撃を受けて衰退していった。そのため、イギリスはムンバイに商業拠点を移すことになった。

スーラトから東インド会社の海軍が移され、ボンベイ海軍と名付けられた。ボンベイ海軍はインド洋の海賊討伐を行い、また1735年にはスラトから造船所もボンベイに移転した。こうして、18世紀末にはインド最大の造船業を持つようになったボンベイはインドの西海岸における海運や貿易の要衝となっていった[8]。ボンベイ海軍は1830年にインド海軍と改称され、1863年イギリス海軍に統合され消滅するまでボンベイを拠点とし続けた。こうしてボンベイが重要性を増していくにつれ、すこしずつ島の間の埋め立てが進められて市街地として発展した。最終的には1845年にHornby Vellardの計画した大規模な干拓が行われ、これによってムンバイの7つの島は完全に大陸の一部となった。

1820年代に入ると、汽船の航行能力が向上したことによりイギリス・インド間の汽船航路開設が叫ばれるようになった。この航路をめぐってはカルカッタ財界の支持する喜望峰ルートとボンベイ財界の支持するスエズ地峡ルートの間で競争となったが、結局ボンベイの推すスエズルートが勝利して、1837年スエズとの間に定期蒸気船航路が開設されるようになった[9]。これによってボンベイはインドの玄関口となり、以降インド最大の貿易港として発展していった。1854年には東インド会社に代わりP&O社がボンベイ・スエズ航路を担当することとなった。1853年にはボンベイと北郊の都市ターナーとの間にインド初の鉄道が開通し、やがてインド全土に張り巡らされた鉄道によってボンベイは貿易港としてますます発展していった。1850年代には多くの綿紡績工場も建設され、この地の産業を大きく発展させた。


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