1661年、ポルトガルのカタリナ王女がイギリスのチャールズ2世と結婚する際、ボンベイは持参金としてイギリス側に委譲された。その植民地時代にはボンベイ管区の中枢として、城塞の中に公会堂・税関などさまざまなイギリス風の施設が建設された。1668年、英国王家はこれを10ポンドでイギリス東インド会社に貸し付け、対岸に良港があったことから1687年にはインドにおける拠点となり、それまでの海軍の基地であったスーラトは 17世紀後半にマラーター王国のシヴァージーによる攻撃を受けて衰退していった。そのため、イギリスはムンバイに商業拠点を移すことになった。
スーラトから東インド会社の海軍が移され、ボンベイ海軍と名付けられた。ボンベイ海軍はインド洋の海賊討伐を行い、また1735年にはスラトから造船所もボンベイに移転した。こうして、18世紀末にはインド最大の造船業を持つようになったボンベイはインドの西海岸における海運や貿易の要衝となっていった[8]。ボンベイ海軍は1830年にインド海軍と改称され、1863年にイギリス海軍に統合され消滅するまでボンベイを拠点とし続けた。こうしてボンベイが重要性を増していくにつれ、すこしずつ島の間の埋め立てが進められて市街地として発展した。最終的には1845年にHornby Vellardの計画した大規模な干拓が行われ、これによってムンバイの7つの島は完全に大陸の一部となった。
1820年代に入ると、汽船の航行能力が向上したことによりイギリス・インド間の汽船航路開設が叫ばれるようになった。この航路をめぐってはカルカッタ財界の支持する喜望峰ルートとボンベイ財界の支持するスエズ地峡ルートの間で競争となったが、結局ボンベイの推すスエズルートが勝利して、1837年にスエズとの間に定期蒸気船航路が開設されるようになった[9]。これによってボンベイはインドの玄関口となり、以降インド最大の貿易港として発展していった。1854年には東インド会社に代わりP&O社がボンベイ・スエズ航路を担当することとなった。1853年にはボンベイと北郊の都市ターナーとの間にインド初の鉄道が開通し、やがてインド全土に張り巡らされた鉄道によってボンベイは貿易港としてますます発展していった。1850年代には多くの綿紡績工場も建設され、この地の産業を大きく発展させた。とくに1861年 - 1865年のアメリカ南北戦争では、アメリカからイギリスへの綿花輸出が停止したことから、ボンベイの綿織物業は飛躍的に拡大する。1869年のスエズ運河開通によってボンベイは直接ヨーロッパと結ばれることとなり、ボンベイ港の重要性はさらに高まった。
ボンベイ財界はカルカッタやマドラス財界と異なり、綿織物工業を基盤としたインド人資本家が多数存在した。ジャムシェトジー・タタが拠点としたのもボンベイである。1903年にはタタの手によってタージマハル・ホテルが建設され、世界有数の高級ホテルとなった。こうしたインド人による経済の発展は労働運動や民族運動をも生み出し、インド国民会議派の創立大会も1885年にボンベイにて行われ、以後も活発な民族運動が行われた[10]。
20世紀、二度の世界大戦を通じてボンベイはコルカタ(カルカッタ)を抜く商工業都市となり、1947年のインド独立後もボンベイ州の州都として発展を続けた。インド独立に際しては、ティラクやマハトマ・ガンディーらの民族運動の拠点ともなった。しかしインド政府が言語ごとに州を再編する、いわゆる言語州の政策を打ち出すと、ボンベイの帰属が問題となった。ボンベイ自体は歴史的に西のデカン高原地域とのつながりが深かったものの、ボンベイ市におけるデカン高原地域のマラーティー語を話す住民は4割にすぎず、残りは非マラーティー語系住民であるうえ、経済の実権は非マラーティー語系住民が握っていたためである。結局、他の言語州から4年遅れて、1960年にボンベイ州は北部がグジャラート州、南部がマハーラーシュトラ州へと分割され、ボンベイは後者の州都となった。しかし、それでもマラーティー系住民がこの町では主導権を握っていないことには変わりなく、この不満を受ける形でマラーティー民族主義を掲げる政党シヴ・セーナーが勢力を拡大していった。1985年の選挙で、シヴ・セーナーは国民会議派を破ってボンベイ市議会の与党となり、市の呼称をマラーティー語のムンバイへと変更する運動を展開し[11]、1995年には、英語での公式名称がボンベイからムンバイへと正式に変更された。
2008年11月26日、ムンバイ同時多発テロが起こり多数の死傷者が出た。
地理サンジャイ・ガンディー国立公園 ?自然保護指定区域。ムンバイの二つの地区。緑色の部分がムンバイ郊外県、黄色がムンバイ市街県カーンヘーリー石窟群
ムンバイは、インド西海岸のアラビア海に注ぎ込むウルハース川の河口付近にあるボンベイ島、およびその北に広がるサーシュティー島にある。この両島は現在は埋め立てによって繋がっており、ボンベイ島はサーシュティー島の南に向かって伸びる半島となっている。かつての両島の境界には、両側に細い入り江が伸びるのみとなっている。中心部は南のボンベイ島の南部にあるフォート地区で、そこから北に向かって市街地が伸びていった。フォート地区の南にあるコラバ地区も19世紀以降開発の進んだ古いエリアで、インド門やタージマハル・ホテルはこの地区にある。フォート地区の東側がボンベイ港であり、ボンベイの発展の原動力となってきた。