ムワッヒド朝(アラビア語: ?????????????, al-Muwa??id?n, アル=ムワッヒードゥーン)は、ベルベル人のイスラム教改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝(1130年 - 1269年)である。首都はマラケシュ。
現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカ(マグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。
アラビア語名称「アル=ムワッヒドゥーン」は「唯一神を信仰する者、一神教を奉じる者」を意味する能動分詞 ?????????(muwa??id, ムワッヒド)の複数形に定冠詞をつけたもの(=the monotheists)で、改革運動の根幹となった神の唯一性(タウヒード)を重視する思想に由来。
この名称のスペイン語訛りから、ヨーロッパではアルモハード朝(英語: Almohad Caliphate)という名前で知られている。 ムワッヒド朝の起源は、ベルベル人のマスムーダ族
歴史
ムワッヒド集団誕生から王朝へ
トゥーマルトが1130年に没すると、弟子のアブドゥルムウミンまたはアブド・アルムーミン(以下「アブド・アルムーミン」と表記[* 2])が後継者に就き[10][13]、彼の孫で3代目のヤアクーブ・マンスールは自らをカリフになぞらえてカリフの称号であるアミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)を指導者の称号とした[14]。アブド・アルムーミン以降、ムワッヒド集団は彼の子孫がアミール・アル=ムウミニーンとして後継者の地位を継承する王朝へと変容するが、ムワッヒドの名がそのまま王朝名として使われることになる[10]。
余所者のアルムーミンがムワッヒド集団を従えたのは、師であるトゥーマルトの出身部族マスムーダ族を上手く懐柔したからであり、彼の死後後継者争いで分裂するマスムーダ族の支持を取り付け、トゥーマルトの後継者の座を獲得してカリフの名乗りも実現、息子を自分の後継者に据えたムワッヒド王朝まで作り上げた。代償としてアルムーミンはマスムーダ族に便宜を図り、王朝で高い地位を与え、軍事力を背景にしたマスムーダ族有力者の長老(シャイフ)たちと協調しつつ牽制する困難な政権運営を余儀なくされた。彼以後のカリフは自家の人間(サイイド)を各都市の太守に任命しながらシャイフを補佐に置き、両者のバランスを保つ政策を取ったが、やがて権威を分与されたシャイフたちはムワッヒド朝にとって大きな災いとなっていった[15][16][17]。 アルムーミンはアトラス山脈に篭ってムラービト朝に対する攻撃を続け、1147年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした[18][19]。さらにムラービト朝の衰退後ムスリム(イスラム教徒)の領土へと侵攻していたクリスチャン(キリスト教徒)たちとの戦いに積極的に乗り出し、マラケシュ占領前の1146年にイベリア半島に散らばる小規模なイスラム国家群(タイファ)の招きに応じてジブラルタル海峡を渡り、1147年にセビリアへ入城した。この時はセビリアの反乱やキリスト教諸国のレコンキスタなどでアンダルス支配は進まなかったが、徐々にアンダルスやマグリブ東部にまで進出、ズィール朝やハンマード朝を滅ぼして、ムワッヒド軍は1159年にチュニジア(イフリーキヤ)へ進出、モロッコからアルジェリア、チュニジア南部までマグリブのほとんど全域を支配するに至った[* 3][22][23]。 一方でアンダルスにも目を向け、1150年、サレの対岸にアンダルス征服の前線基地リバートを建設、都市計画へと規模を拡大してセビリアに次ぐ第2の首都となるラバトを作った。そうして準備を整えてからアンダルスへ渡海、1153年にマラガ、翌1154年にグラナダ、1157年にアルメリアを落としていった。しかしムスリムかつタイファの一員でありながらキリスト教勢力に味方するイブン・マルダニーシュ
マグリブ・アンダルスに進出
即位以前にセビリアの統治者を務めたアブー=ヤアクーブ・ユースフ1世はアンダルスに強い関心を持ち、1171年にアンダルスへ渡海して5年間留まり、セビリアを事実上の首都としてモスクや宮殿建設を行い、全領土を統治した。