ムワッヒド朝
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ムワッヒド朝(アラビア語: ?????????????‎, al-Muwa??id?n, アル=ムワッヒードゥーン)は、ベルベル人イスラム教改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝1130年 - 1269年)である。首都はマラケシュ

現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカマグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。

アラビア語名称「アル=ムワッヒドゥーン」は「唯一神を信仰する者、一神教を奉じる者」を意味する能動分詞 ?????????(muwa??id, ムワッヒド)の複数形に定冠詞をつけたもの(=the monotheists)で、改革運動の根幹となった神の唯一性(タウヒード)を重視する思想に由来。

この名称のスペイン語訛りから、ヨーロッパではアルモハード朝(英語: Almohad Caliphate)という名前で知られている。
歴史
ムワッヒド集団誕生から王朝へ

ムワッヒド朝の起源は、ベルベル人のマスムーダ族出身のイブン・トゥーマルトが開始したイスラム改革運動にある[1]。彼は現在のモロッコ南部アトラス山脈の出身で、初め村のモスクで読み書きを教わり、続いてマラケシュ・コルドバで学び、12世紀の初頭に東方への遊学とマッカ(メッカ)巡礼に出た[2][3][4][5]。そこでムラービト朝治下のマグリブのイスラム教を改革する必要を感じた[* 1]イブン・トゥーマルトは帰郷すると、ムラービト朝の公定法学派であるマーリク学派に属するイスラム法学者(ウラマー)を痛烈に批判した[7]1121年には故郷で自らが救済者(マフディー)であると宣言して、ムラービト朝に対する反乱を開始した[8]。トゥーマルトは神の唯一性(タウヒード)を重視する教義を説き、そこから彼に従う勢力は「タウヒードの信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれた[9][10][11]

トゥーマルトが1130年に没すると、弟子のアブドゥルムウミンまたはアブド・アルムーミン(以下「アブド・アルムーミン」と表記[* 2])が後継者に就き[10][13]、彼の孫で3代目のヤアクーブ・マンスールは自らをカリフになぞらえてカリフの称号であるアミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)を指導者の称号とした[14]。アブド・アルムーミン以降、ムワッヒド集団は彼の子孫がアミール・アル=ムウミニーンとして後継者の地位を継承する王朝へと変容するが、ムワッヒドの名がそのまま王朝名として使われることになる[10]

余所者のアルムーミンがムワッヒド集団を従えたのは、師であるトゥーマルトの出身部族マスムーダ族を上手く懐柔したからであり、彼の死後後継者争いで分裂するマスムーダ族の支持を取り付け、トゥーマルトの後継者の座を獲得してカリフの名乗りも実現、息子を自分の後継者に据えたムワッヒド王朝まで作り上げた。代償としてアルムーミンはマスムーダ族に便宜を図り、王朝で高い地位を与え、軍事力を背景にしたマスムーダ族有力者の長老(シャイフ)たちと協調しつつ牽制する困難な政権運営を余儀なくされた。彼以後のカリフは自家の人間(サイイド)を各都市の太守に任命しながらシャイフを補佐に置き、両者のバランスを保つ政策を取ったが、やがて権威を分与されたシャイフたちはムワッヒド朝にとって大きな災いとなっていった[15][16][17]
マグリブ・アンダルスに進出

アルムーミンはアトラス山脈に篭ってムラービト朝に対する攻撃を続け、1147年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした[18][19]。さらにムラービト朝の衰退後ムスリム(イスラム教徒)の領土へと侵攻していたクリスチャン(キリスト教徒)たちとの戦いに積極的に乗り出し、マラケシュ占領前の1146年にイベリア半島に散らばる小規模なイスラム国家群(タイファ)の招きに応じてジブラルタル海峡を渡り、1147年にセビリアへ入城した。この時はセビリアの反乱やキリスト教諸国のレコンキスタなどでアンダルス支配は進まなかったが、徐々にアンダルスやマグリブ東部にまで進出、ズィール朝ハンマード朝を滅ぼして、ムワッヒド軍は1159年にチュニジア(イフリーキヤ)へ進出、モロッコからアルジェリア、チュニジア南部までマグリブのほとんど全域を支配するに至った[* 3][22][23]

一方でアンダルスにも目を向け、1150年サレの対岸にアンダルス征服の前線基地リバートを建設、都市計画へと規模を拡大してセビリアに次ぐ第2の首都となるラバトを作った。そうして準備を整えてからアンダルスへ渡海、1153年マラガ、翌1154年グラナダ1157年アルメリアを落としていった。しかしムスリムかつタイファの一員でありながらキリスト教勢力に味方するイブン・マルダニーシュ(スペイン語版)(通称ローボ王)に阻まれ、アンダルスはほぼ統一されたが、マルダニーシュの支配地ムルシアバレンシアは征服出来なかった。アルムーミンは再度アンダルス征服を考えたが1163年に死去、息子アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世がカリフに即位しアンダルス完全統一を希求した[24][25][26]

即位以前にセビリアの統治者を務めたアブー=ヤアクーブ・ユースフ1世はアンダルスに強い関心を持ち、1171年にアンダルスへ渡海して5年間留まり、セビリアを事実上の首都としてモスクや宮殿建設を行い、全領土を統治した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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