暖流の北大西洋海流の影響で海は1年を通して凍結することがなく、世界最北の不凍港の一つ(緯度はハンメルフェスト等の方が高い)である。そのためソビエト連邦時代からの軍港であり、現在も海軍の基地を有している。また緯度の割にはあまり寒くなく、平均気温は最も寒い1月でも氷点下8-13度ほどである。しかし夏は冷涼で、7月の平均気温は摂氏15度にも達しない程度である。ケッペンの気候区分では「Df」(冷帯湿潤気候)に属するが、夏は低温であるため、「ET」(ツンドラ気候)に近い気候であると言える。 「ムルマンスク」という名前は「ムルマンにある町」を意味している。 1916年の設立時にはロマノフ朝にちなんでロマノフ・ナ・ムールマネ(Рома?нов-на-Му?рмане、ムルマンのロマノフ)と名付けられたが、1917年の二月革命の後に改称された。 かつてロシア人は、古代ノルウェー人「ノルマン」のことを「ムルマン」と呼んでいた。その後この名称は、異国人が関係したことによって事件が起きた土地のことを言うようになった。バレンツ海沿岸を「ムルマン」と名づけるようになり、続いてコラ半島全体をそう呼ぶようになった。 19世紀の1870年代、北極圏に港町を建設する計画がなされた。その後アレクサンドル3世の時期、セルゲイ・ヴィッテらが、大西洋に面した不凍港ムルマンまで長大な鉄道を敷設して大洋艦隊の基地を建設し、従来のバルト海の軍港に代えるという構想を提案した。しかし1894年にアレクサンドル3世が没しニコライ2世が皇帝に即位すると、ムルマン開発案は却下され、バルト海艦隊の新たな母港・要塞をフィンランド湾外のリバウ(現・ラトビアのリエパーヤ)に建設して旅順とリバウの東西二か所に要塞艦隊を設けることにされた。 1912年、新地調査の為、地理学者フョードル・リトケ率いる最初の調査団がムルマンにやって来た。3年後の1915年、第一次世界大戦時に、コラ半島に鉄道が開通したことに伴い、バレンツ海のコラ湾右岸にムルマンスク港 1917年、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)での十月革命勝利後、ムルマンスクに暫定革命委員会が設立され、首長としてボリシェヴィキがこれを占めた。しかし二月革命までコラ湾での投錨許可を与えるという戦艦協約から、1918年3月には、既に上陸部隊が沿岸に武装上陸した。これが内政武力干渉の始まりだった。1919年に町の政権は白衛軍のところに戻り、北部暫定政府は白衛軍総司令官アレクサンドル・コルチャークの最高権力を承認した。しかしながら、1919年秋には共産主義革命に干渉するために白衛軍の支援をしていた連合国軍(イギリス・アメリカ)はムルマンスクからの撤退を余儀なくされ、コルチャーク率いる白衛軍は急速に力を失っていった。1920年2月21日には町でボリシェヴィキによって組織された暴動が勃発し、ボリシェヴィキが再び政権を奪取した。
名称
「ムルマン」の語源
歴史
基本
革命と内政武力干渉