1845年前後に、父は息子をデリー・カレッジ(英語版)「東洋」部門に入学させた[1]。そこでは英語よりもアラビア語やペルシア語で授業が行われ、アーザードはウルドゥー語で書いたエッセイが賞を取るなど、優秀な生徒であった[1]。デリー・カレッジにおける8年の教育課程の間に見合いによる結婚も経験した[1]。デリーでは、ムガル朝の桂冠詩人、ゾウク(英語版)にも学んだ[2]。カレッジは1854年ごろに卒業したと見られ、卒業後は父の新聞や出版社の仕事を手伝った[1]。
1857年の「大反乱」では、運動に参加した父ムハンマド・バーキルが逮捕され処刑された[1][2][3]。アーザードは家族(母こそいないが年老いた女性から幼い子どもまでを含む拡大家族を形成して暮らしていた)とともに屋敷から退去を命じられた[1]。アーザードは家族を知人らに預けると、自分ひとりは旅を続け、最終的にラーホールに落ち着いた[1]。ラーホールでは東洋学者のゴットリープ・ヴィルヘルム・ライトナー(英語版)の知己を得た[2]。 アーザードは、アルターフ・フサイン・ハーリー
作品
アーザードは大変な愛書家でもあり、人生の多くの時間を本を集めることに費やした[3]。住んでいた北インドから、稀書を買い求めるために中央アジアへ旅に出たこともある[3]。そのほか、イランやベンガルにも本を買うための旅に出た[3]。アーザードが亡くなった後は、孫がパンジャーブ大学(英語版)にアーザードの蔵書、1816冊を寄贈した[3]。大学はこれを「アーザード・コレクション」と名づけて保管したが、1961年の時点で50冊ほどが所在不明になっていることがわかっている[3]。
出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p Pritchett, Frances W.. “ ⇒Everybody Knows This Much ...”. 2017年9月21日閲覧。