2015年1月23日、第6代国王アブドゥッラーの崩御に伴い、父サルマーンが第7代国王に即位し、併せて首相を兼ねると、同日にサルマーンが発した勅命により、ムハンマドは国防大臣、王宮府長官、国王特別顧問に親任された[11]。同月29日には、廃止された最高経済評議会の後継機関となる経済開発評議会の議長に就任し、軍事に加えて経済政策でも実権を得た[12]。
2015年1月22日に隣国イエメンのアブド・ラッボ・マンスール・ハーディー大統領が辞任を表明する(後に撤回)と、シーア派武装組織フーシがイエメン全土を掌握した。これに危機感を持ったサウジアラビアはフーシに対立するイエメン暫定政権を支援する形で、3月からイエメンのフーシの拠点に対して空爆を行ってイエメン内戦への介入を開始した。これがムハンマドの国防大臣としての初めての大きな仕事となった[13]。 2015年4月29日にサルマーンが勅命を発し、アブドゥッラーの崩御に伴い王太子兼第一副首相に昇格したばかりのムクリン・ビン・アブドゥルアズィーズが退任、副王太子兼第二副首相のムハンマド・ビン・ナーイフが内務大臣と政治・安全保障評議会議長兼務のまま王位継承順第1位の王太子兼第一副首相に昇格、ムハンマドは国防大臣と経済開発評議会議長兼務のまま王位継承順第2位となる副王太子兼第二副首相に昇格となった。弱冠30歳に過ぎないムハンマドが王位継承順第2位となる副王太子兼第二副首相に就任したことは異例であり、公益財団法人中東調査会によると、サルマーンのこの人事は、前国王アブドゥッラー派だった王太子ムクリンを権力の核心から遠ざけてサルマーン自身の周辺を近親のスデイリー・セブン閥で固めるため、また息子のムハンマドを将来の王に据えるためのものであり、ムクリンの退任は表向きは自身の希望による辞任であるが実際はサルマーンによる解任であるとされた[2]。 ムハンマドは、健康に問題を抱えるサルマーンの代理として、従来のアメリカとパキスタンと中華人民共和国[14]に加えてロシアとフランスにも接近するサウジの外交政策を委ねられているとされ、2015年6月にロシアで開催された「サンクトペテルブルク国際経済フォーラム2015」にアリ・ヌアイミ石油鉱物資源大臣やジュベイル外務大臣らを伴って訪問し、エネルギー、宇宙開発、原子力、投資分野における6件の合意書に署名した。この際、シリア内戦におけるシリアのアサド政権への各々の立場についても話し合ったと見られ、7月にはロシアの仲介でアサドの情報顧問アリ・マムルーク
副王太子として
2015年秋に王族内で、ムハンマドが事実上統治を代行している現行のサルマーン体制を非難する怪文書が出回り、この中でムハンマドは「サウジアラビアを政治的にも経済的にも軍事的にも破局に導いている。」と非難された。ムハンマドが独断専行的に「サウジアラビア版サッチャー革命」と評されるような急進的な経済改革プランを志向していることやイエメンへ軍事介入していることが非難の的となった。またイエメン介入に関しては、同年12月にドイツの諜報機関の連邦情報局が「ムハンマドが自らをアラブの指導者として見せ付けるために、独断的に衝動的なイエメンへの介入政策を繰り返しており、これに対して王族内で不満が高まっており、サウジの体制に危機が迫っている。」とする分析結果を公表した[28][29][30]。
2016年1月、サウジが国内のシーア派指導者・ニムル師を処刑(アラビア語版)すると、これにシーア派のイランが反発し駐イランのサウジ大使館が群衆に襲撃された。これを受けてサウジはイランと国交断絶したが、一連のサウジ側の決定は、ムハンマドが軍事・外交で実権を握った影響もあるとされる[31]。この件でムハンマドはアメリカのケリー国務長官からイランとの関係を修復するよう電話を受けた[32]。
同年8月31日から9月2日まで訪日し、天皇、皇太子徳仁親王、安倍晋三内閣総理大臣、稲田朋美防衛大臣と会談し、経済・安全保障分野での二国間協力に関する覚書を交わした。この訪日は翌年のサルマーン国王の訪日の地ならしでもあった[33]。 2017年6月、サルマーン国王の勅命によりムハンマド・ビン・ナーイフ王太子が解任され、ムハンマドが王太子に昇格し王位継承者となった[34]。
王太子として