ムハンマド・ナギーブ
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ムハンマド・ナギーブ
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エジプト共和国
初代 大統領
任期1953年6月18日1954年11月14日
エジプト共和国
第3代 首相
任期1954年3月8日1954年4月18日
元首ムハンマド・ナギーブ大統領(兼任)
エジプト共和国
初代 首相
任期1953年6月18日1954年2月25日
元首ムハンマド・ナギーブ大統領(兼任)
エジプト王国
第34代 首相
任期1952年9月17日1953年6月18日
元首フアード2世国王

出生1901年2月20日
英埃領スーダンハルツーム
死去 (1984-08-29) 1984年8月29日(83歳没)
エジプトカイロ

ムハンマド・ナギーブ(アラビア語: ???? ????‎, ラテン文字表記: Muhammad Naguib, 1901年2月20日 - 1984年8月29日)は、エジプト軍人政治家1952年のクーデターエジプト王国第34代首相となり、翌年の共和政移行によって初代エジプト共和国大統領に就任した。

姓については、正則アラビア語(フスハー)に従えばナジーブという日本語表記が発音に忠実であるが、エジプト方言の発音方式に従ってナギーブと称される。また、ナギブと表記されることもある。宗派はスンナ派[1]
来歴
青年期ナギーブと弟アリ

1901年イギリスエジプトの共同統治下にあったスーダン英埃領スーダン)において、エジプト軍のスーダン駐在員ユーセフ・ナギーブの息子として生まれた[2]。幼少期をハルツームで過ごしたが、イギリスによる植民地支配を批判していたため、イギリス人家庭教師に鞭打ちの罰を受けることがあった。ナギーブはナポレオン・ボナパルトを模範としていたが、間もなくムスタファ・カーミル・パシャ(英語版)を敬愛するようになり、暫くするとサアド・ザグルールを模範とするようになった。

1916年に父親が死去したのに伴い、エジプトの首都カイロに移住した。

青年期は翻訳家を目指して語学に精を出したが、政治学法学に転向後、1917年4月に陸軍士官学校に入隊したため博士号は取得しなかった。しかし、入隊後も語学を学び、イタリア語、英語、フランス語、ドイツ語を習得した。また、ヘブライ語も学び、第一次中東戦争後は陸軍大学でヘブライ語を学習させることを命令し、履修した軍人たちはイスラエルの通信を傍受出来るようになった。
自由将校団自由将校団(前列左から3人目がナギーブ)

1918年1月23日に士官学校を卒業したナギーブは、2月19日、第17歩兵大隊附となりスーダンに派遣された。偶然にも、かつての父と同じ大隊の配属であった[3][4][5]

1919年、エジプト革命が起きると、軍紀違反にも拘らずカイロへ赴き、国会階段前でエジプト国旗を掲げ座り込みを行った。その後、ハルツーム州シェンディ(アラビア語版)の騎兵大隊に転属となるが、1921年に同大隊の廃止に伴いカイロの西部師団自動車部隊に転属[6]。適性証明のため2か月間警察学校で研修を行い、卒業後はカイロ市内の警備部隊に配属され、アブディーン(英語版)、オールド・カイロ地区、ブーラーク(英語版)地区、ヘルワン地区などで勤務。

1922年、第13大隊附となり、バハル・アル・ガザール地方ワーウでの勤務を経て、マラカルの機関銃部隊に転属[7]

1923年4月28日、カイロの近衛部隊を経てマーディ(英語版)の第8大隊附。

1924年、中尉昇進。1927年に結婚。

軍務と並行して法学を学び続け、1923年法学部学士号を、1927年にはエジプト軍士官として初めて法学士を、続いて29年には経済学ポストグラデュエート・ディプロマを得る。1931年に博士論文獲得のため除隊を決意するが、直前になり除隊を思い留まった。なお、法学を学んでいる1929年、時の首相モスタファ・エル=ナハス(英語版)の講義を受けた事があるが、本来国王に近しい立場の与党が議会政治によって国王の暴走を抑止出来ており、軍は政治に関与すべきでないと彼は説いた。これはのちのナギーブの政治スタンスに生かされていく[8]

1931年12月に大尉昇進、1934年にアリーシュの沿岸警備隊に異動し、シナイ砂漠を横断する密輸業者の摘発任務に従事した。

1936年英埃条約ののち軍機構監督委員に就任、1937年より軍機関誌の発行に携わる。

1938年5月6日、少佐。同年、マルサ・マトルーフでの英軍との合同軍事演習の誘いを受けるも拒否した[9]

1940年に国王ファールーク1世に謁見するが、二人は良好な雰囲気で謁見が行われたにもかかわらず、ナギーブはファールーク1世の手にキスすることを拒み、代わりに握手を交わした。

1942年2月、駐エジプト大使マイルズ・ランプソンが宮殿を英軍に包囲させ、ファールーク1世に反英政権の解体を迫るという事件が起こると、国王の態度に憤慨し、「陛下を護衛できなかった私は制服をまとう事が恥ずかしくございますので、軍から身を引かせていただきます」と辞表を叩き付ける。また、酔っぱらった英兵に財布を抜かれる事件に遭う[10]

第一次中東戦争では指揮官として参戦し、戦場での活躍により国民的人気を集めた[2]

1949年夏、少将、国境軍総司令官。

1950年に中将、参謀総長となり、心ならずも国王の身辺警護の任に当たる事となる[11]。この頃、軍内部の秘密組織自由将校団へ加入した。この組織は親英路線を採っていたエジプト王国政府の打倒を目的に、1949年ごろにガマール・アブドゥル=ナーセルを中心とした青年将校によって結成された集団である。ナーセルは青年将校の結束を強化するために国民からの人気が高いナギーブを団長に推薦し、ナギーブの副官であったアブドルハキーム・アーメルを介して将校団の革命実行委員会のメンバーが相次いで接触。ナギーブは青年将校たちに試されていたことを悟るが、それを不快に思わなかった彼は就任を承諾した[11]。また、1952年1月に将校クラブ会長選挙で国王派を破り当選した[11]。これにより自由将校団は軍内部で勢力を拡大し、危機感を抱いたファールーク1世はナギーブの解任を画策するが、実現する前に自由将校団によるクーデターで失脚してしまう。
エジプト革命ナギーブとナーセル


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