ムハンマド・オマル
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2000年11月には非イスラム教国の外交官で初めて中国の駐パキスタン大使がオマルと面会を許され、オマルは新疆ウイグル自治区の過激派を支援しないことを約束していた[12][13]

パキスタンメディアの報道によると、ターリバーン政権の元閣僚が、2013年春にオマルが肺結核で死亡しアフガニスタン国内で埋葬されたことを認めたという[11]。またターリバーンは産経新聞の取材にもオマルの死亡を認めた。

ターリバーンによる発表後、アル・シャバブヌスラ戦線アラビア半島のアルカーイダ等のアルカーイダ系組織、イスラム戦線に属するムジャーヒディーン諸派、カフカース首長国東トルキスタンイスラム運動など、様々なイスラム主義勢力が哀悼の意を表明した。

墓については破壊されるのを防ぐため長らく非公開とされてきたが、アフガニスタン全土がターリバーンの手に落ちた後の2022年11月6日に墓が南部ザーブル州スリ地区オマルゾ付近にあることと、現地の写真がターリバーン暫定政権によって公開された[14]
人物

人見知りで、寡黙な性格。

身長は198cmと極めて背が高く、頑丈な体格だった。

アメリカ国務省の正義への報酬プログラムに掲載されたオマルの写真は別人のものだった。

オマルの生前、国の最高指導者であるにもかかわらず公式の写真・映像いずれも存在しなかった。唯一、本人の肖像と考えられるものはムハンマド・オマルが預言者ムハンマドのマントを取り出した時のものを盗撮したBBCの不鮮明な映像のみだったが、ターリバーンは2015年に、1978年に撮影したとされる隻眼になる前のオマルの写真を公開した。[15]

アフガニスタンの代表的な詩人アブドゥル・バリ・ジャハニは学者や活動家の代表団と一緒にオマルの事務所を訪れ、ターリバーンの厳格な統治に対する人々の不満をオマルに伝えた。オマルはジャハニをひたすら見つめ、「神の御加護を」とだけ言って立ち去った[16]

発言

「アッラーフ(神)は私たちに勝利を約束し、ブッシュは私たちに敗北を約束した。世界は、どちらの約束が果たされるかを目の当たりにするでしょう。」(対テロ戦争宣言に関してボイス・オブ・アメリカがインタビューした際の発言、意訳)[17][18]
脚注[脚注の使い方]^ タリバン 。国際テロリズム要覧 公安調査庁 2018年12月21日閲覧
^ 生誕地はカンダハール州ノデ村とも、ウルズガン州ともいわれる。
^ a b 中東調査会 1996, p. 31.
^ Mashal, Mujib. “The myth of Mullah Omar” (英語). www.aljazeera.com. 2022年1月4日閲覧。
^ 安保理決議1267(訳文) 外務省
^ 安保理決議1333(訳文) 外務省
^ a b c d e f g “Fugitive Taliban leader lived short walk from US base, book reveals” (英語). the Guardian (2019年3月10日). 2022年12月14日閲覧。
^'Taliban leader Mullah Omar killed'
^ a b “Fugitive Taliban leader lived short walk from US base, book reveals” (英語). the Guardian (2019年3月10日). 2022年12月14日閲覧。
^ a b “オマル師は2年前に死亡” アフガン政府が発表”. NHKNEWSWEB. (2015年7月30日). ⇒オリジナルの2021年8月15日時点におけるアーカイブ。. https://archive.ph/3iDXi 2015年7月30日閲覧。 
^ a bアフガン:オマル師、2年前に死亡 国家保安局が確認 毎日新聞 2015年7月29日


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