ムハンマド・オマル
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一大勢力に成長したターリバーンは1995年にはヘラートを占領した。
宗教的権威を獲得

1995年ターリバーンのカブール攻略は一向に進展せず、死傷者も増大したことから、ターリバーン内部で動揺が広がっていた。後からターリバーンの支配に入った地域の代表者らは和平を求めていたが、それでもなお、オマルを取り巻く強硬なグループはアフガニスタンの全土征服の戦いを望んでいた。オマルを取り巻くグループはオマルを「信徒たちの長」を意味するアミール・アル=ムウミニーンに指名した。1996年4月、オマルは預言者ムハンマドが使用したとされる外套を着て、アフガニスタンにあり溢れた泥の建物の屋上に現れた。建物の下の広場に集まっていた1,500人の宗教指導者[4]は「アミール・アル=ムウミニーン」と絶叫し、バイア(英語版)というイスラームにおける忠誠の誓いの儀式を行った[3]。これは預言者ムハンマドの死後、カリフとなったウマル・イブン・ハッターブがウンマの指導者として確認された時と同じ手続きであり、オマルは、アフガニスタン人だけでなく世界中の全ムスリムを指導する権利を手に入れた。
アフガニスタン・イスラム首長国の樹立

1996年カーブル占領でターリバーンの最高指導者としてオマルは新政権「アフガニスタン・イスラム首長国(Islamic Emirate of Afghanistan)」を発足させ、その首長(アミール・アル=ムゥミニーン)に就任した。ターリバーンは宗教的な紐帯を軸に発足した政権であり、首長の称号もかつてのカリフになぞらえたものだったが、オマル自身はマドラサの教育を修了しておらず、宗教的な勧告(ファトワー)を発する権限は持たなかった。また、アフガニスタンの首長としての在職中はカンダハール市郊外の自宅で隠士生活を送っていた。

ターリバーン政権はイスラームの価値観に基づいたアフガニスタンの復興を目指したが、イスラームの名のもとに国民に女子教育禁止など極端な人権侵害を行ったため国際的に孤立した。さらにアメリカ合衆国サウジアラビア政府に対するテロ行為の黒幕と目されていたビン・ラーディンとアルカーイダを客人として迎え入れて匿ったことから、アメリカと激しく対立する。アルカーイダはアフガニスタンでテロリストの訓練キャンプを設置したほか、この間にもアメリカ大使館爆破事件米艦コール襲撃事件などのテロ事件を引き起こした。このため1999年には国際連合安全保障理事会決議1267[5]、2000年には国際連合安全保障理事会決議1333[6]が採択され、アルカーイダとビン・ラーディンの引き渡しが要求されたが、オマルはいずれの決議にも従わなかった。
政権崩壊詳細は「アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)」を参照

2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が起こり、ビン・ラーディンがその最重要容疑者とみなされ、ターリバーンはまたもアメリカからその身柄の引渡しを要求されるが、オマルはこれも拒否した。このためターリバーンはNATOの攻撃対象とされ、NATO軍と北部同盟の攻撃により同年12月にターリバーン政権は崩壊した。
消息

2001年12月5日、オマルはカンダハールでラーバリシュラの会合を開き、彼らに何がしたいか尋ねた。多くの人が戦いをやめ、降伏する準備ができているとした[7]。オマルはターリバーン最高指導者の全権を国防相ウバイドゥッラー・アフンド師に書面で引き渡し、カンダハール陥落の2日前には同地を離れザーブル州の州都カラートに潜伏した[7]。オマルはターリバーンの元ザーブル州知事オマリのお抱え運転手の家に匿われ、隠し部屋で暮らした[7]。お抱え運転手は家族に、匿っている人物がターリバーンの高官であるとだけ伝え、決して周囲の人間に明かさないように口止めした[7]2004年4月、パキスタンのメディアがオマルとのインタビューに成功した。そこでオマルはビン・ラーディンとは連絡を取っていると語った。同年オマルが潜伏する家から僅か数百メートルの高台に米軍・ルーマニア軍によって前方作戦基地が建設されたため、同州シンカイ郡の僻地で暮らすターリバーン支持者の家の小屋へ引っ越した[7]。村の誰もがターリバーンの高官が匿われている事を知っており、村人から食べ物や衣服を提供されていた[7]。オマルは2001年以降ターリバーンで積極的な役割をほとんど果たさず、活動内容は毎年のイードの度に出す声明と、運動が分裂し助言を求められた際に録音テープや書面をラーバリシューラへ送るのみだった[7]

一説には、アフガニスタンとパキスタンのパシュトゥーン人居住地帯を転々としながらアフガニスタンの親米政権に対するジハードを指揮しているといわれた。情報筋によると、オマルはその後パキスタンのカラチに死ぬまで住んでいたとされる。2006年初頭にアフガニスタン国軍により拘束されたターリバーンのムハマド・ハニーフ報道官の供述に拠れば、オマルは当時軍統合情報局(ISI)の保護下にあり、クエッタの安全な場所に滞在していたという。ハーミド・カルザイは「オマルの背後にはISIがいる」とパキスタンを非難していた。

また、スタンリー・マクリスタルデヴィッド・ペトレイアスらアメリカ軍高官は「イランイスラム革命防衛隊がターリバーンの庇護に関与している」と度々イランを非難していた。2006年6月、アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーがアメリカ軍の爆撃で死亡すると、オマルはザルカーウィーを殉教者と讃える声明を発表した。2009年11月、ワシントン・ポスト紙は「オマルの潜伏先がISIによってカラチに移された」と報じた。2011年1月、ワシントン・ポスト紙はCIA筋の情報として「オマルが心臓病を発症した」と報じるなど、オマルのパキスタン潜伏説が度々流れた。2011年5月、7月と死亡説が流れたが[8]、ターリバーンのスポークスマンはこれを否定した。
死亡

オマルは2013年に咳と嘔吐を繰り返して衰弱した。身辺警護を担当していたオマリは、医者にかかるよう進言したがオマルはこれを拒否し、4月23日シンカイ郡の隠れ家で病死した[9]。オマリは遺体を埋葬する様子を撮影し、オマルの異母兄弟アブドゥル・マナン・オマリとオマルの息子ムハンマド・ヤクーブに映像を渡した[9]。ラーバリシューラにもオマルの訃報が伝えられたが、当時ターリバーンは米国と和平交渉を行っており、絶対的な権威を持っていたオマルの死が知れ渡ると不利益を被る可能性があったことから、隠蔽する方針となった。

2015年7月29日、アフガニスタン大統領府と同国の情報機関・国家保安局は、オマルが2013年4月にパキスタンのカラチにある病院で死亡していたことが「信頼できる情報」に基づいて確認されたと発表した[10][11]アメリカ合衆国ホワイトハウス報道官のシュルツ副報道官も同日の記者会見で、アフガニスタン大統領府の発表に信憑性があり情報を分析中であると述べた[10]。翌日、ターリバーンは2013年にオマルが死亡した事を公表した。

中国はオマルの死に最も動揺した国の1つとされる。2000年11月には非イスラム教国の外交官で初めて中国の駐パキスタン大使がオマルと面会を許され、オマルは新疆ウイグル自治区の過激派を支援しないことを約束していた[12][13]

パキスタンメディアの報道によると、ターリバーン政権の元閣僚が、2013年春にオマルが肺結核で死亡しアフガニスタン国内で埋葬されたことを認めたという[11]


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