この項目では、エジプトのムハンマド・アリー朝の創始者について説明しています。同名の人物については「ムハンマド・アリー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ムハンマド・アリー・パシャ
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エジプト総督
ムハンマド・アリー朝初代君主
ムハンマド・アリー・パシャ
在位1805年5月17日 - 1848年3月2日
戴冠式1805年5月17日
別号ワーリー
全名ムハンマド・アリー・パシャ・アル=マスウード・イブン・アーガー
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出生1769年3月2日
オスマン帝国、ルメリア州、マケドニア地方、カヴァラ
死去1849年8月2日
オスマン帝国、 エジプト州、アレクサンドリア
埋葬
エジプト、カイロ、ムハンマド・アリー・モスク
子女イブラーヒーム・パシャ
アフマド・トゥーソン
イスマーイール・カーメル
サイード・パシャなど
王朝ムハンマド・アリー朝
父親イブラーヒーム・アーガー
宗教イスラム教(スンナ派)
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ムハンマド・アリー・パシャ(アラビア語: ???? ??? ????, ラテン文字転写: Mu?ammad ?Al? B???、1769年3月4日 - 1849年8月2日)は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代ワーリー(在位:1805年5月17日 - 1848年3月2日)。メフメト・アリー(トルコ語: Mehmet Ali)ともいう。
エジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至る。
最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父[1]、エル・キビール(大王)[2]と呼ばれ、崩御後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている[2]。
生涯
生い立ちカヴァラ
当時オスマン帝国領だったカヴァラ(帝国の欧州側・バルカン半島のマケドニア地方東部の港町。現ギリシャ領テッサロニキ近郊)に生まれる。生年については諸説あるが、ムハンマド・アリー自身は1769年生まれと称し[1]、「私はアレクサンダーの故郷で、ナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだと言われている。[3]。民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である[4]。いずれにしても欧州出身ということになる。父のイブラーヒーム・アーガーは街道の警備を担当する非正規部隊の司令官で、母のハドラはカヴァラ市長官の親戚であった[1]。幼い頃に父を失ったムハンマド・アリーは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだ[5]。前半生は多分に伝説的で、ムハンマド・アリーがこの時期の自分自身について言及することはなかった[6]。岩永博によると、「比類ない出世を遂げた偉大な君主の、後身に釣り合わない青年時代の身分の卑しさを修飾する捏造」が疑われる言い伝えも存在する[5]。 1798年、イギリスとの間でエジプト経由の交易路を巡る外交戦を展開していたフランスが、自国商人の保護を理由にエジプトへの侵攻を開始した(エジプト・シリア戦役)[7]。エジプトの宗主国であるオスマン帝国はこれに対抗するべく、カヴァラ市に対しアルバニア人非正規部隊300人の派遣を命じた。この部隊の副隊長として戦功を挙げたムハンマド・アリーは、6000人からなるアルバニア人非正規部隊全体の副司令官へと昇進した[8][9]。 遡ってフランス軍の侵入以前、18世紀エジプトではマムルークたちがエジプト総督(ワーリー)を差し置いて政治の実権を掌握し、オスマン帝国からの独立を宣言するマムルークも現れていた。18世紀後半にはマムルークの派閥抗争に支配権回復を図るオスマン帝国の巻き返しが絡む権力闘争が展開され、エジプトの政治情勢は混迷を極めた[10]。イギリス軍がフランス軍を破り、さらに両国の間に講和条約(アミアンの和約)が結ばれイギリス軍がエジプトから撤退(1803年3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた(カイロ暴動
エジプト・シリア戦役、カイロ暴動を経てエジプト総督に就任