ムハンマド・アリー
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ムハンマド・アリーが数年のうちにアルバニア人非正規部隊の司令官からエジプト総督まで登りつめた過程について、フランスの総領事ベルナルディーノ・ドロヴェティー(英語版)は次のように評した。構想力あるアルバニア人指導者の措置は、戦闘をせず、スルタンを個人的に怒らせないで、カイロのパシャとなることを狙っていたように私にはみえた。あらゆる行動はマキャヴェリ的精神を顕している。私は実際かれらがあらゆるトルコ人より強い頭脳をもっていると考えた。かれはシャイフ達や民衆の支持によって権力をえ、かれが入手できる地位をスルタン政府も進んで認めざるをえないようにしようと狙っている、と思えた。 ? (岩永 1984, p. 43)

加藤博は、ムハンマド・アリーのエジプト総督就任をもって独立王朝ムハンマド・アリー朝が誕生したとしている[18][注釈 1]
支配基盤の確立

エジプト総督に就任したムハンマド・アリーであったが、その支配地域はカイロ周辺とナイル川デルタの一部に限られ、上エジプトやナイル川デルタ西部はムハンマド・アリーに敵対するマムルークや遊牧部族などの支配域であった[19]。また、現状を追認する形でエジプト総督就任を認めたに過ぎないオスマン帝国や、アミアンの和約を破棄しエジプトを対フランス戦の拠点として確保しようとするイギリスは、ムハンマド・アリーの追い落としを画策した。しかし、当時の国際状勢はムハンマド・アリーに味方した[20]。まずナポレオン戦争の渦中にあったイギリスにはエジプト情勢に深く介入する余裕がなかった[20]。イギリス軍は1807年3月から4月にかけてエジプト上陸を試みたものの、ムハンマド・アリーによって撃退された(1807年のアレキサンドリア遠征(英語版))[21]。4月にロゼッタ近郊のアル・ハミード(英語版)で行われた戦闘(アル・ハミードの戦い)でイギリス軍が喫した敗北(総兵力4000人中2000人が死傷)は、「第一次アフガン戦争と並んで英国が東洋で喫した最大の敗退の一つ」といわれる[22]。ムハンマド・アリーはイギリス軍を積極的に攻撃することを避け、最終的には協定により撤退させた。その後も交渉と協調がムハンマド・アリーの対英政策の基調をなしていく[23]。オスマン帝国も1807年から1808年にかけてセリム3世ムスタファ4世が相次いで廃位されるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった[20]。ムハンマド・アリーはこうしたオスマン帝国やイギリスの苦境に乗じて政治基盤の強化に乗り出し、敵対するマムルークや宗教勢力を排除または懐柔することに成功した[24]。しかし、マムルークはムハンマド・アリーに完全に服従したわけではなく、常に反旗を翻す機会をうかがっていた[25]
近代化とマムルークの粛清シタデルの惨劇(アラビア語版)

1811年、オスマン帝国はムハンマド・アリーに対し、マッカを支配下に置くなどアラビア半島のほぼ全域を支配下に置きシリアイラクにも勢力を拡大しつつあった第一次サウード王国を攻撃するよう要請した。ムハンマド・アリーはこの要請を、いまだ完全に服従したとは言い難いマムルークの反乱を煽り自身を総督の座から追い落とそうとする計略であると察知し、後顧の憂いを断つべく苛烈な手法を用いてマムルークを粛清することを決意した[26]3月11日、次男アフマド・トゥーソンのアラビア遠征軍司令官任命式を執り行うという名目で有力なマムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害する(シタデルの惨劇(アラビア語版))と、カイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、1812年までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除することに成功した[27]。山口直彦は、マムルーク粛清に成功したことによりムハンマド・アリーのエジプトにおける支配権は確固たるものとなり、実質的に独立王朝ムハンマド・アリー朝が成立したとしている[注釈 1]。以後、ムハンマド・アリーは近代化政策を推し進め、国力の増強を図っていくことになる[28]。後年、ムハンマド・アリーはマムルーク粛清について問われると、次のように答えたという。私は、あの時期を好まない。あのような状況に私はいやおうなく追い込まれてしまったのであり、いつ果てるとも知らぬ戦いと悲惨、策略と流血について、今さら語ったところで何になろう。私個人の歴史は、私があらゆる束縛から解放され、この国を長い眠りからめざめさせることができた時、初めて開始された。 ? (牟田口 1992, p. 259)
アラビアおよびスーダンへの遠征

1811年3月、アフマド・トゥーソンを司令官とするアラビア遠征軍約1万が出陣した。遠征軍はヒジャーズ北部ヤンブーに上陸すると苦戦の末、1813年までにマディーナ、マッカ、ジッダの攻略に成功。その後本陣が襲撃され敗走を余儀なくされるなど劣勢に立たされたが、1814年に第一次サウード王国内部で後継争いが起こったことにより戦況は好転し、1818年9月に1万人の戦死者を出した末に首都ダルイーヤを陥落させたことでアラビア遠征は終結した[29]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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