ムハンマド・アリー
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岩永博によると、「比類ない出世を遂げた偉大な君主の、後身に釣り合わない青年時代の身分の卑しさを修飾する捏造」が疑われる言い伝えも存在する[5]
エジプト・シリア戦役、カイロ暴動を経てエジプト総督に就任

1798年、イギリスとの間でエジプト経由の交易路を巡る外交戦を展開していたフランスが、自国商人の保護を理由にエジプトへの侵攻を開始した(エジプト・シリア戦役[7]。エジプトの宗主国であるオスマン帝国はこれに対抗するべく、カヴァラ市に対しアルバニア人非正規部隊300人の派遣を命じた。この部隊の副隊長として戦功を挙げたムハンマド・アリーは、6000人からなるアルバニア人非正規部隊全体の副司令官へと昇進した[8][9]

遡ってフランス軍の侵入以前、18世紀エジプトではマムルークたちがエジプト総督(ワーリー)を差し置いて政治の実権を掌握し、オスマン帝国からの独立を宣言するマムルークも現れていた。18世紀後半にはマムルークの派閥抗争に支配権回復を図るオスマン帝国の巻き返しが絡む権力闘争が展開され、エジプトの政治情勢は混迷を極めた[10]。イギリス軍がフランス軍を破り、さらに両国の間に講和条約(アミアンの和約)が結ばれイギリス軍がエジプトから撤退(1803年3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた(カイロ暴動)[11]。カイロ暴動の最中の1803年5月、アルバニア人非正規部隊の司令官ターヘル・パシャが暗殺され、ムハンマド・アリーが後任の司令官に就任した[12]。これをきっかけに、ムハンマド・アリーはエジプトにおける権力闘争に割って入った。ムハンマド・アリーはまず、マムルークと協力してオスマン帝国が任命した総督を無力化し、次にマムルーク内の派閥抗争を利用しつつカイロ周辺からマムルーク勢力を排除した[13]。さらに自らがエジプト総督に推したアフマド・フルシド・パシャと対立すると総督に対するカイロ市民の不満を巧みに自身への支持に絡げ、1805年5月にはウラマー(宗教指導者)たちから新総督への推挙を受けることに成功した[14]。ムハンマド・アリーが市民の支持を背景に新総督への就任を宣言すると、オスマン帝国政府もこれを追認せざるを得なくなった[15][16][17]。ムハンマド・アリーが数年のうちにアルバニア人非正規部隊の司令官からエジプト総督まで登りつめた過程について、フランスの総領事ベルナルディーノ・ドロヴェティー(英語版)は次のように評した。構想力あるアルバニア人指導者の措置は、戦闘をせず、スルタンを個人的に怒らせないで、カイロのパシャとなることを狙っていたように私にはみえた。あらゆる行動はマキャヴェリ的精神を顕している。私は実際かれらがあらゆるトルコ人より強い頭脳をもっていると考えた。かれはシャイフ達や民衆の支持によって権力をえ、かれが入手できる地位をスルタン政府も進んで認めざるをえないようにしようと狙っている、と思えた。 ? (岩永 1984, p. 43)

加藤博は、ムハンマド・アリーのエジプト総督就任をもって独立王朝ムハンマド・アリー朝が誕生したとしている[18][注釈 1]
支配基盤の確立

エジプト総督に就任したムハンマド・アリーであったが、その支配地域はカイロ周辺とナイル川デルタの一部に限られ、上エジプトやナイル川デルタ西部はムハンマド・アリーに敵対するマムルークや遊牧部族などの支配域であった[19]。また、現状を追認する形でエジプト総督就任を認めたに過ぎないオスマン帝国や、アミアンの和約を破棄しエジプトを対フランス戦の拠点として確保しようとするイギリスは、ムハンマド・アリーの追い落としを画策した。しかし当時の国際状勢はムハンマド・アリーに味方した[20]。まずナポレオン戦争の渦中にあったイギリスにはエジプト情勢に深く介入する余裕がなかった[20]。イギリス軍は1807年3月から4月にかけてエジプト上陸を試みたものの、ムハンマド・アリーによって撃退された(1807年のアレキサンドリア遠征(英語版))[21]。4月にロゼッタ近郊のアル・ハミード(英語版)で行われた戦闘(アル・ハミードの戦い)でイギリス軍が喫した敗北(総兵力4000人中2000人が死傷)は、「第一次アフガン戦争と並んで英国が東洋で喫した最大の敗退の一つ」といわれる[22]。ムハンマド・アリーはイギリス軍を積極的に攻撃することを避け、最終的には協定により撤退させた。その後も交渉と協調がムハンマド・アリーの対英政策の基調をなしていく[23]。オスマン帝国も1807年から1808年にかけてセリム3世ムスタファ4世が相次いで廃位されるなど政情が混乱し、ムハンマド・アリーに対応する余裕はなかった[20]。ムハンマド・アリーはこうしたオスマン帝国やイギリスの苦境に乗じて政治基盤の強化に乗り出し、敵対するマムルークや宗教勢力を排除または懐柔することに成功した[24]。しかしマムルークはムハンマド・アリーに完全に服従したわけではなく、常に反旗を翻す機会をうかがっていた[25]
近代化とマムルークの粛清シタデルの惨劇(アラビア語版)

1811年、オスマン帝国はムハンマド・アリーに対し、マッカを支配下に置くなどアラビア半島のほぼ全域を支配下に置きシリアイラクにも勢力を拡大しつつあった第一次サウード王国を攻撃するよう要請した。ムハンマド・アリーはこの要請を、いまだ完全に服従したとは言い難いマムルークの反乱を煽り自身を総督の座から追い落とそうとする計略であると察知し、後顧の憂いを断つべく苛烈な手法を用いてマムルークを粛清することを決意した[26]3月11日、次男アフマド・トゥーソンのアラビア遠征軍司令官任命式を執り行うという名目で有力なマムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害する(シタデルの惨劇(アラビア語版))と、カイロ市内のマムルークの邸宅、さらには上エジプトの拠点にも攻撃を仕掛け、1812年までにエジプト全土からマムルークの政治的・軍事的影響力を排除することに成功した[27]。山口直彦は、マムルーク粛清に成功したことによりムハンマド・アリーのエジプトにおける支配権は確固たるものとなり、実質的に独立王朝ムハンマド・アリー朝が成立したとしている[注釈 1]。以後、ムハンマド・アリーは近代化政策を推し進め、国力の増強を図っていくことになる[28]。後年、ムハンマド・アリーはマムルーク粛清について問われると、次のように答えたという。私は、あの時期を好まない。あのような状況に私はいやおうなく追い込まれてしまったのであり、いつ果てるとも知らぬ戦いと悲惨、策略と流血について、今さら語ったところで何になろう。私個人の歴史は、私があらゆる束縛から解放され、この国を長い眠りからめざめさせることができた時、初めて開始された。 ? (牟田口 1992, p. 259)
アラビアおよびスーダンへの遠征

1811年3月、アフマド・トゥーソンを司令官とするアラビア遠征軍約1万が出陣した。遠征軍はヒジャーズ北部ヤンブーに上陸すると苦戦の末、1813年までにマディーナ、マッカ、ジッダの攻略に成功。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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