ジンナーはカラチやボンベイでの初等・中等教育を受けた後カラチのミッションスクールへ、そして16歳のときにボンベイ大学の試験に合格した[7]。1892年に宗主国のイギリスの首都であるロンドンに渡った。ロンドンにはグラハムズ・シッピング&トレーディング・カンパニーがあり、この会社は、グラスゴーに本拠地を置き織物とポートワインを手がけていた商社でジンナーの家族が営む会社と取引があった[1]。ジンナーは、イギリスに渡る直前に母親の進めもあり2歳年下の遠縁の娘と結婚したが、その結婚生活は短く2年後に若くして妻に先立たれる。また、ジンナーのイギリス滞在中にはその母親も亡くなった[4]。
ジンナーは会社員生活を辞め、1896年にリンカーンズ・イン法律協会に入った[4]。そこで弁護士資格を取得した。19歳のインド人弁護士の誕生は当時最年少の記録であった。ほぼ同じころ、ジンナーは政治への関心を持ち始めた。彼が尊敬する政治家は、当時活躍していたインド人のゾロアスター教徒の政治活動家ダーダーバーイー・ナオロージーや、1890年にインド国民会議派の代表を務めたフェローズシャー・メヘターであった[8]。
ジンナーのイギリス滞在も後半になると、父親の家業が傾いたせいもありイギリスを去り、ボンベイで弁護士事務所を開業した。弁護士生活は成功を収め、ボンベイのマラバール・ヒルに後年ジンナー・ハウスと呼ばれることになる邸宅を構えた。ジンナーの評判は、インド国民会議派の独立運動指導者バール・ガンガーダル・ティラクの知ることとなり、1905年にティラクが中心となった騒擾事件をめぐる裁判の弁護人としてジンナーが雇われることになった。ジンナーは法廷で、「インド人が自らの国での自由と自治を要求するのは当然のことであり、そのようなティラクの要求行動は決して騒擾などではない」という主張を展開したが、ティラクは最終的に投獄されてしまうこととなった[8]。 1896年、ジンナーは、インド国民会議派に参加した。インド国民会議派はインドにおける最大の政治組織であった。当時の国民会議派の参加者と同じように、ジンナー自身は早急なインド独立を望んでいなかった。その理由は、教育や法律、文化、産業といった分野でのインドにおけるイギリスの影響力を考慮していたからである。ジンナーは、60人によって構成された帝国評議会に参加したが、評議会自身は全く権力と権威を持っているわけではなかった。 第一次世界大戦中、ジンナーは、インドがイギリスに戦争協力する見返りに自治権承認を得ることを希望して、他のインド人運動家とともにイギリスの戦争を支持した。 ジンナーは、1906年に設立された全インド・ムスリム連盟に参加することを当初敬遠していた。しかし、1913年ムスリム連盟に加入し、1916年、ラクナウで開催された党の年次集会において連盟代表に選出された。同年、国民会議派とムスリム連盟の合同会議がラクナウで開催され、ラクナウ協定(Lucknow Pact
政界へ
この一方、私生活においては1918年に2度目の結婚をする。相手の女性ラタンバーイーは24歳年下でボンベイのゾロアスター教徒の名家出身の女性であった。この結婚はジンナー側のムスリム・コミュニティーからのみならず、新婦一族のゾロアスター教徒側からも激しい反対を受けた。そのためラタンバーイーはイスラームに改宗し、マリヤム・ジンナーと改名した。その結果、彼女は自分の親族およびゾロアスター教徒コミュニティーから絶縁されてしまうこととなった。ジンナー夫妻はボンベイに住居を構え、インド国内やヨーロッパ各地を旅行した。1919年に夫妻の間に女児が生まれ、ディーナー・ジンナーと名づけられた。
ガンディーの登場とジンナージンナーとガンディー
1915年、モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーが南アフリカより帰国し、ビハール州のインディゴ栽培業者との闘争、アフマダーバードの工場経営者との闘争、グジャラートの納税拒否闘争を指導した。ガンディーが20年間、南アフリカで展開してきた非暴力不服従の方式を踏襲していた[9]。ガンディーは他の国民会議派の指導者とは異なり、洋服を着ることはなかったし、英語に代わり、インドの言語を使用した。また、ヒンドゥーの教義に忠実であった。そのため、ガンディーが指揮する独立運動はインドのヒンドゥーの間で多くの支持を集めた。
もっとも、ガンディーの運動は、カルカッタ(現コルカタ)、ボンベイ(現ムンバイ)、マドラス(現チェンナイ)といった大都市出身の、1920年以前の国民会議派の社会的エリート層からは支持されなかった。