ヒンドゥー側との対立を深めていた時期、ジンナーの私生活は様々な困難に直面していた。その背景にはジンナーの政治的活動が活発であったことがあり、ジンナーはヨーロッパ旅行などをすることで夫婦間の関係を保とうとした。しかし、結婚生活は1927年に破局。さらに1929年、離婚した妻が重病を患い亡くなるとジンナーは悲しみにくれた。
1931年、ロンドンで円卓会議が開催された。しかし、ジンナーは、ガンディーを批判すると同時に、会議の始まりの段階で既に幻滅していたとされる[14] 。ムスリム連盟内部は一枚岩ではなく、ジンナーは政治の表舞台から退場し、イギリスで再び法律の世界で働くことを決めた。また、以降ジンナーの生涯において妹ファーティマ・ジンナー(英語版)がもっとも親密な助言者となる。ファーティマは、ジンナーの娘ディーナーの出産を助けていた。しかし、後にディーナーがゾロアスター教徒の家系出身でクリスチャンのビジネスマンと結婚すると、ジンナーと娘の関係は疎遠なものとなっていた。 アーガー・ハーン3世、チョウドリー・ラフマト・アリー
「パキスタン」構想
「パキスタン構想」の端緒は、ムハンマド・イクバールによるムスリムがインド国内でまとまった領土を持つことを主張した、1930年の連盟の議長演説である[16]。1933年には、チョウドリー・ラフマト・アリーにより北西インドを「パキスタン」と呼ぶパンフレットが配布された。ジンナーはムスリム連盟が全国的に支持を集めるため従来の考えを捨て、イクバールが提唱した「パキスタン」構想の実現へと方針を大きく転換させた。この構想に基づき、ムスリムが自らの権益を護るためにはヒンドゥーが多数を占める統一インドとは別個の独立国家が必要であるという主張が展開された。ジンナーは、ムスリムとヒンドゥーは明確に別個の民族であり、両者の間には妥協して歩み寄る余地のない決定的相違があるという考えを持つにいたり、このような考えは、後に「二民族論」(Two-Nation Theory)として知られるようになる[17] 。この考えは後にパキスタンがインドとは別個の国家として分離独立するさいの基礎理念となった。ジンナーは、もしヒンドゥー多数派のインドと一体となった形で独立した場合、そのような国家においてムスリムは社会の周縁においやられ、最終的にはヒンドゥーとムスリムの間での内戦に発展するだろうと宣言した。ジンナーの考え方の転換は、イクバールがジンナーと親密な関係を築いたためであるとされる[18] 。
第二次世界大戦中の1940年に開催されたムスリム連盟ラホール大会において、ラホール決議(Lahore Resolution)が採択された。ジンナーは、議長演説で以下のように述べた。広く認知されているように、ムスリムは少数民族ではない。……国民という言葉のいかなる定義に照らしても、ムスリムは一国民であり、その故国、その国土、その国家をもたなければならない。われわれは、自由で独立した国民として、隣国の人々とともに平和に、協調しつつ生活することを願う。我々は、我々の国民が、最善と思われる方法により、理想にしたがい、資質を生かし、精神、文化、経済、社会、政治を十二分に発展させることを願う[19]。
こうして、ジンナーは「インド亜大陸のヒンドゥーとムスリムは互いに異なった民族である」(二民族論)と宣言し、ムスリム人口が多数を占める地域がヒンドゥー人口多数地域とは別に独立することを目指す決議を採択させた。
この様なジンナーの主張は、統一国家としての独立を目指す国民会議派によって否定され、またマウラーナー・アブル・カラーム・アーザード(en)、ハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン(en)、マウドゥーディーといったイスラーム指導者、あるいは他のムスリム政党ジャマーアテ・イスラーミーからの非難を浴びた。1943年にはジンナーを敵視する政治団体から暗殺されかかり、その際に刺傷を負った。 1945年6月、インド総督ウェーヴェル伯爵は、夏の首都シムラーに、ガンディー、ジンナー、そして、その他の会議派のリーダーを招集した。ウェーヴェルは、インド総督と最高司令官を除いた、全員がインド人によって構成される行政参事会を創設し、これを暫定政府として機能させるという打開案を提示した。参事会は、同じ人数のヒンドゥー及びムスリムによって構成されるというムスリム側の要求が認められた内容であった。しかし、ジンナーは、自らがインド側のムスリムの代表であると考えており、参事会のメンバーは連盟によって指名されるべきであると主張をしたため、この会談は決裂した[20]。
パキスタン建国