このような中で、ジンナーもまたガンディーの運動を批判した。1920年に国民会議派を脱会した。ジンナーの政治運動の根底には穏健派ゴーパール・クリシュナ・ゴーカレー(Gopal Krishna Gokhale)と行動をともにするうち身に着けた政治理念があり、よって抵抗活動は合法的に展開するものであり不穏当な大衆運動は支持しない方針であったのが理由である[10]。また、ガンディーの運動は、イスラームとヒンドゥーという2つの共同体によって構成されているインドが完全に2つに割れてしまう可能性を孕んでいると考えてもいた[11]。ジンナーは、ムスリム連盟の代表になったが、そのために連盟内の派閥争い(親英派VS新国民会議派)に巻き込まれざるをえなくなった。1927年にはイギリス人のみで構成されたサイモン委員会に対抗する一方で、将来の憲法起草のためムスリムとヒンドゥーの指導者間の交渉に入った。
1928年、国民会議派を指導していたネルーの手によって「ネルー報告」がまとめられた。この報告において、インドの即時独立を主張する一方で、ムスリムに関しては分離選挙を実施するという1916年の国民会議派の約束を反故にし、また、議会でムスリムのための議席数を確保することも否定されていたため[12]、ムスリム側は到底この報告書の提案を認めることはできなかった。当時、ジンナーは、議会で3分の1の議席数がムスリム側に留保されること、移譲してしかるべき権限が中央政府から地方政府へ移譲されるのであれば分離選挙は断念してもよいと考えていた[12]。そのため、1929年3月28日、ジンナーの14条(en)を発表することで両陣営の妥協を図ろうとした[13]。しかし、ジンナーの提案は、国民会議派や他の政党から反対を受けた。
ヒンドゥー側との対立を深めていた時期、ジンナーの私生活は様々な困難に直面していた。その背景にはジンナーの政治的活動が活発であったことがあり、ジンナーはヨーロッパ旅行などをすることで夫婦間の関係を保とうとした。しかし、結婚生活は1927年に破局。さらに1929年、離婚した妻が重病を患い亡くなるとジンナーは悲しみにくれた。
1931年、ロンドンで円卓会議が開催された。しかし、ジンナーは、ガンディーを批判すると同時に、会議の始まりの段階で既に幻滅していたとされる[14] 。ムスリム連盟内部は一枚岩ではなく、ジンナーは政治の表舞台から退場し、イギリスで再び法律の世界で働くことを決めた。また、以降ジンナーの生涯において妹ファーティマ・ジンナー(英語版)がもっとも親密な助言者となる。ファーティマは、ジンナーの娘ディーナーの出産を助けていた。しかし、後にディーナーがゾロアスター教徒の家系出身でクリスチャンのビジネスマンと結婚すると、ジンナーと娘の関係は疎遠なものとなっていた。 アーガー・ハーン3世、チョウドリー・ラフマト・アリー
「パキスタン」構想
「パキスタン構想」の端緒は、ムハンマド・イクバールによるムスリムがインド国内でまとまった領土を持つことを主張した、1930年の連盟の議長演説である[16]。1933年には、チョウドリー・ラフマト・アリーにより北西インドを「パキスタン」と呼ぶパンフレットが配布された。ジンナーはムスリム連盟が全国的に支持を集めるため従来の考えを捨て、イクバールが提唱した「パキスタン」構想の実現へと方針を大きく転換させた。この構想に基づき、ムスリムが自らの権益を護るためにはヒンドゥーが多数を占める統一インドとは別個の独立国家が必要であるという主張が展開された。ジンナーは、ムスリムとヒンドゥーは明確に別個の民族であり、両者の間には妥協して歩み寄る余地のない決定的相違があるという考えを持つにいたり、このような考えは、後に「二民族論」(Two-Nation Theory)として知られるようになる[17] 。この考えは後にパキスタンがインドとは別個の国家として分離独立するさいの基礎理念となった。ジンナーは、もしヒンドゥー多数派のインドと一体となった形で独立した場合、そのような国家においてムスリムは社会の周縁においやられ、最終的にはヒンドゥーとムスリムの間での内戦に発展するだろうと宣言した。ジンナーの考え方の転換は、イクバールがジンナーと親密な関係を築いたためであるとされる[18] 。
第二次世界大戦中の1940年に開催されたムスリム連盟ラホール大会において、ラホール決議(Lahore Resolution)が採択された。