ムハンマド・アリー・ジンナー
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というのも、国民会議派との対等の立場はなく、ムスリムの代表権を連盟が独占しているわけでもなく、ムスリムに関する諸問題に対しての拒否権を有しているわけでもなかった[28]

国民会議派主導による憲法制定会議の議事開始が12月9日に始まるなか、ジンナーは一貫して前述のグループ分け問題の決定が優先されることを望んでいた。インド総督ウェーヴェルは、ジンナーの態度を「譲歩する前にとるいつもの極端な態度」と考えていた[28]。中間政府のヒンドゥーとムスリムの協力体制はついに実を結ぶ事はなく、1946年末には、パンジャーブ州の西部、東ベンガル州、バローチスターンシンドの分割が検討され始めた[29]。パンジャーブ州の分割の決定は、1947年3月8日になされた[30]。国民会議派が多数を占めていた北西辺境州の帰属をめぐっては7月に選挙が実施され、パキスタンへの帰属が決まった。
パキスタン総督として

ムスリム連盟の議員総会はデリー決議を行い、ムスリムが多数を占める6州が単一の主権独立国家パキスタンとして即時樹立されることを、インド総督ルイス・マウントバッテンに要求した。1947年6月、総督はこれに屈してインド・パキスタン分離独立案を発表し、8月にイギリス国王国家元首に頂く独立君主制国家パキスタンが成立し、ジンナーはその総督に就任した。
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年12月)

1940年代を通して、ジンナーは結核を患っていた。この事実を知っていたのは、ジンナーの姉妹とジンナーの側近のみであった。1948年になるとジンナーの健康状態は悪化していく一方であった。パキスタンがイギリスの統治から独立すると、その負荷がジンナーにのしかかりさらに健康状態を悪化させたのもまた事実である。

ジンナーは、バローチスターン州のズィアラート(パキスタンで夏の保養地として有名な地域)において数ヶ月の間、休養をとったが病状の改善は見られず、1948年9月11日、結核と肺がんの合併症により死去した。71歳没。

ジンナーの葬儀は、ジンナーを祀るためのジンナー廟の建設後に実施された。これ以降ジンナー廟において公式行事や軍隊セレモニーがその時々の節目に行われることとなった。
ジンナーの家族のその後

娘ディーナーは、パキスタンの独立後もインドに残り、その後、アメリカニューヨークに住居を構えた。ジンナーの孫に当たるナスリー・ワーディヤーは、ムンバイ在住の企業家である。ジンナーの妹ファーティマ・ジンナーは、国家の母として知られるようになり、1963年から1964年にかけて実施された大統領選挙に立候補、アユーブ・ハーンに敗北した。

ムンバイに残されたジンナー・ハウスは現在インド政府が所有しているが、その帰趨をめぐっては議論が続いている[31]。ジンナーはネルーに対して、いつか自分がムンバイに帰ったときのために保存しておいてもらうよう個人的に依頼していた[32]。パキスタンはインド政府に対してジンナー・ハウスを領事館として使用することを申し出ているが、ディーナーの家族が自らの財産権を主張しており、事態は進展していない。
偶像、批判、研究

パキスタンにおいて、ジンナーは、「カーイデ・アーザム(もっとも偉大な指導者)」として尊敬を集める存在であり、10パキスタン・ルピーを越える高額紙幣にジンナーの肖像画が描かれている。また、現在、ジンナー国際空港と呼ばれるカラチの国際空港はかつては、カーイデ・アーザム国際空港と呼ばれていた時代もあり、パキスタン航空のハブ空港で、国内随一の国際空港でもある。

ジンナーの名前を採用している道路はイスラーム世界に広がっており、トルコアンカラ最大の通りCinnah Caddesi、あるいはイランテヘランで最も新しい高速道路の名前もジンナーにちなんでいる。

かつてジンナーは、イギリス領インド帝国から分裂独立を招いた張本人という神話が存在した。このジンナーに対する評価は、インド総督の秘書官として活躍したメーナンの著作、"The Transfer of Power in India" (Orient Longman, 1957)の影響が大きい[33]イギリス帝国主義によって分割統治が展開されたインドにおいて、イギリスの政策にムスリム連盟が乗った形で、ヒンドゥー国家とは別の国家を無理にジンナーが中心となって建設しようとしたことから、インドとパキスタンの分離独立に際してインド側から多くのムスリムが、またパキスタン側から多くのヒンドゥーが流出したのだ、という神話である[33]


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