ムハンマド・アリー・ジンナー
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ジンナーの評判は、インド国民会議派の独立運動指導者バール・ガンガーダル・ティラクの知ることとなり、1905年にティラクが中心となった騒擾事件をめぐる裁判の弁護人としてジンナーが雇われることになった。ジンナーは法廷で、「インド人が自らの国での自由と自治を要求するのは当然のことであり、そのようなティラクの要求行動は決して騒擾などではない」という主張を展開したが、ティラクは最終的に投獄されてしまうこととなった[8]
政界へ

1896年、ジンナーは、インド国民会議派に参加した。インド国民会議派はインドにおける最大の政治組織であった。当時の国民会議派の参加者と同じように、ジンナー自身は早急なインド独立を望んでいなかった。その理由は、教育や法律、文化、産業といった分野でのインドにおけるイギリスの影響力を考慮していたからである。ジンナーは、60人によって構成された帝国評議会に参加したが、評議会自身は全く権力と権威を持っているわけではなかった。

第一次世界大戦中、ジンナーは、インドがイギリスに戦争協力する見返りに自治権承認を得ることを希望して、他のインド人運動家とともにイギリスの戦争を支持した。

ジンナーは、1906年に設立された全インド・ムスリム連盟に参加することを当初敬遠していた。しかし、1913年ムスリム連盟に加入し、1916年、ラクナウで開催された党の年次集会において連盟代表に選出された。同年、国民会議派とムスリム連盟の合同会議がラクナウで開催され、ラクナウ協定(Lucknow Pact)が採択された。この協定は、イギリスに対しインドの広範の自治を要求していくという内容であったが、ジンナーはこの策定作業に参加した[9]。ジンナーの主張は、オーストラリアニュージーランドカナダなど英領植民地が前身となった国家と同等の自治権をインドにも認めるよう要求する、というものであった。

この一方、私生活においては1918年に2度目の結婚をする。相手の女性ラタンバーイーは24歳年下でボンベイのゾロアスター教徒の名家出身の女性であった。この結婚はジンナー側のムスリム・コミュニティーからのみならず、新婦一族のゾロアスター教徒側からも激しい反対を受けた。そのためラタンバーイーはイスラームに改宗し、マリヤム・ジンナーと改名した。その結果、彼女は自分の親族およびゾロアスター教徒コミュニティーから絶縁されてしまうこととなった。ジンナー夫妻はボンベイに住居を構え、インド国内やヨーロッパ各地を旅行した。1919年に夫妻の間に女児が生まれ、ディーナー・ジンナーと名づけられた。
ガンディーの登場とジンナージンナーとガンディー

1915年モーハンダース・カラムチャンド・ガンディー南アフリカより帰国し、ビハール州インディゴ栽培業者との闘争、アフマダーバードの工場経営者との闘争、グジャラートの納税拒否闘争を指導した。ガンディーが20年間、南アフリカで展開してきた非暴力不服従の方式を踏襲していた[9]。ガンディーは他の国民会議派の指導者とは異なり、洋服を着ることはなかったし、英語に代わり、インドの言語を使用した。また、ヒンドゥーの教義に忠実であった。そのため、ガンディーが指揮する独立運動はインドのヒンドゥーの間で多くの支持を集めた。

もっとも、ガンディーの運動は、カルカッタ(現コルカタ)、ボンベイ(現ムンバイ)、マドラス(現チェンナイ)といった大都市出身の、1920年以前の国民会議派の社会的エリート層からは支持されなかった。彼らは、合法的な抵抗運動を支持しながらも、社会的な恩恵にあずかれる司法機関・立法機関の役職を勤めていたからである[10]。また、各地の藩王国や人口密度の少ない中央インドの山間部に住む人々や、職人カーストや土地を持たない最下級カーストに所属する人々はガンディーの運動と無縁であった[10]。ガンディーの行動に対しては、マハーラーシュトラ州のティラク支持者も1920年にティラクが死亡するまで賛同しなかった[10]上、詩人ラビンドラナート・タゴールもガンディーの行動を1つの狭い分野に固執しているとして嫌悪していた[10]

このような中で、ジンナーもまたガンディーの運動を批判した。1920年に国民会議派を脱会した。ジンナーの政治運動の根底には穏健派ゴーパール・クリシュナ・ゴーカレー(Gopal Krishna Gokhale)と行動をともにするうち身に着けた政治理念があり、よって抵抗活動は合法的に展開するものであり不穏当な大衆運動は支持しない方針であったのが理由である[10]。また、ガンディーの運動は、イスラームとヒンドゥーという2つの共同体によって構成されているインドが完全に2つに割れてしまう可能性を孕んでいると考えてもいた[11]。ジンナーは、ムスリム連盟の代表になったが、そのために連盟内の派閥争い(親英派VS新国民会議派)に巻き込まれざるをえなくなった。1927年にはイギリス人のみで構成されたサイモン委員会に対抗する一方で、将来の憲法起草のためムスリムとヒンドゥーの指導者間の交渉に入った。

1928年、国民会議派を指導していたネルーの手によって「ネルー報告」がまとめられた。この報告において、インドの即時独立を主張する一方で、ムスリムに関しては分離選挙を実施するという1916年の国民会議派の約束を反故にし、また、議会でムスリムのための議席数を確保することも否定されていたため[12]、ムスリム側は到底この報告書の提案を認めることはできなかった。当時、ジンナーは、議会で3分の1の議席数がムスリム側に留保されること、移譲してしかるべき権限が中央政府から地方政府へ移譲されるのであれば分離選挙は断念してもよいと考えていた[12]。そのため、1929年3月28日、ジンナーの14条(en)を発表することで両陣営の妥協を図ろうとした[13]。しかし、ジンナーの提案は、国民会議派や他の政党から反対を受けた。

ヒンドゥー側との対立を深めていた時期、ジンナーの私生活は様々な困難に直面していた。その背景にはジンナーの政治的活動が活発であったことがあり、ジンナーはヨーロッパ旅行などをすることで夫婦間の関係を保とうとした。しかし、結婚生活は1927年に破局。さらに1929年、離婚した妻が重病を患い亡くなるとジンナーは悲しみにくれた。

1931年、ロンドンで円卓会議が開催された。しかし、ジンナーは、ガンディーを批判すると同時に、会議の始まりの段階で既に幻滅していたとされる[14] 。ムスリム連盟内部は一枚岩ではなく、ジンナーは政治の表舞台から退場し、イギリスで再び法律の世界で働くことを決めた。また、以降ジンナーの生涯において妹ファーティマ・ジンナー(英語版)がもっとも親密な助言者となる。ファーティマは、ジンナーの娘ディーナーの出産を助けていた。しかし、後にディーナーがゾロアスター教徒の家系出身でクリスチャンのビジネスマンと結婚すると、ジンナーと娘の関係は疎遠なものとなっていた。
「パキスタン」構想

アーガー・ハーン3世、チョウドリー・ラフマト・アリー、ムハンマド・イクバールなどのイスラーム指導者は、ジンナーが再びムスリム側の団結をとりまとめてくれることを期待して、インドへの帰国を促した。1934年、ジンナーは帰国してムスリム連盟の再編成に奔走し始めた。ジンナーの活動にはリヤーカト・アリー・ハーン(en)の協力があった。しかし、1937年に実施された総選挙では、全国のムスリムのわずか5%しか支持が得られなかったばかりではなく、ムスリムが多数を占めるパンジャーブシンド、北西辺境州といった地域でも惨敗を喫した[15]。惨敗の原因は、パンジャーブやベンガルも含めた全国規模でのムスリムの置かれた状況を政治課題に掲げていたジンナーをあくまで個人レベルで支持する層はいたが、各地で結成された地方政党は宗教を軸に結成された政党ではなく、あくまでも農民階層の権益保護を目的としていた[15]。したがって、農民の支持はこれら地方政党に流れた。しかし、インド国民会議派が「大衆との接触」運動を展開すると、徐々にではあるがムスリム側にもヒンドゥー色が強くなる国民会議派に対する疑念が生じるようになった[15]。その過程で、「パキスタン」構想が現実味をもったものとして急浮上してきたのである。

「パキスタン構想」の端緒は、ムハンマド・イクバールによるムスリムがインド国内でまとまった領土を持つことを主張した、1930年の連盟の議長演説である[16]。1933年には、チョウドリー・ラフマト・アリーにより北西インドを「パキスタン」と呼ぶパンフレットが配布された。


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