ムハンマド・アリー・ジンナー
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1933年には、チョウドリー・ラフマト・アリーにより北西インドを「パキスタン」と呼ぶパンフレットが配布された。ジンナーはムスリム連盟が全国的に支持を集めるため従来の考えを捨て、イクバールが提唱した「パキスタン」構想の実現へと方針を大きく転換させた。この構想に基づき、ムスリムが自らの権益を護るためにはヒンドゥーが多数を占める統一インドとは別個の独立国家が必要であるという主張が展開された。ジンナーは、ムスリムとヒンドゥーは明確に別個の民族であり、両者の間には妥協して歩み寄る余地のない決定的相違があるという考えを持つにいたり、このような考えは、後に「二民族論」(Two-Nation Theory)として知られるようになる[17] 。この考えは後にパキスタンがインドとは別個の国家として分離独立するさいの基礎理念となった。ジンナーは、もしヒンドゥー多数派のインドと一体となった形で独立した場合、そのような国家においてムスリムは社会の周縁においやられ、最終的にはヒンドゥーとムスリムの間での内戦に発展するだろうと宣言した。ジンナーの考え方の転換は、イクバールがジンナーと親密な関係を築いたためであるとされる[18]

第二次世界大戦中の1940年に開催されたムスリム連盟ラホール大会において、ラホール決議(Lahore Resolution)が採択された。ジンナーは、議長演説で以下のように述べた。広く認知されているように、ムスリムは少数民族ではない。……国民という言葉のいかなる定義に照らしても、ムスリムは一国民であり、その故国、その国土、その国家をもたなければならない。われわれは、自由で独立した国民として、隣国の人々とともに平和に、協調しつつ生活することを願う。我々は、我々の国民が、最善と思われる方法により、理想にしたがい、資質を生かし、精神、文化、経済、社会、政治を十二分に発展させることを願う[19]

こうして、ジンナーは「インド亜大陸ヒンドゥーとムスリムは互いに異なった民族である」(二民族論)と宣言し、ムスリム人口が多数を占める地域がヒンドゥー人口多数地域とは別に独立することを目指す決議を採択させた。

この様なジンナーの主張は、統一国家としての独立を目指す国民会議派によって否定され、またマウラーナー・アブル・カラーム・アーザード(en)、ハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーン(en)、マウドゥーディーといったイスラーム指導者、あるいは他のムスリム政党ジャマーアテ・イスラーミーからの非難を浴びた。1943年にはジンナーを敵視する政治団体から暗殺されかかり、その際に刺傷を負った。
パキスタン建国

1945年6月、インド総督ウェーヴェル伯爵は、夏の首都シムラーに、ガンディー、ジンナー、そして、その他の会議派のリーダーを招集した。ウェーヴェルは、インド総督と最高司令官を除いた、全員がインド人によって構成される行政参事会を創設し、これを暫定政府として機能させるという打開案を提示した。参事会は、同じ人数のヒンドゥー及びムスリムによって構成されるというムスリム側の要求が認められた内容であった。しかし、ジンナーは、自らがインド側のムスリムの代表であると考えており、参事会のメンバーは連盟によって指名されるべきであると主張をしたため、この会談は決裂した[20]

第二次世界大戦終結後の1945年から1946年にかけて、インドで総選挙が実施された。この選挙は、ムスリム連盟とインド国民会議派の一騎討ちの様相を呈した。中央議会選挙において国民会議派は非ムスリム割り当て枠の90%を確保、同時に8つの州で政権を握った。一方、ムスリム連盟も中央議会におけるムスリム割り当て枠30全てを独占し、地方議会のムスリム割り当て枠500のうち442議席を獲得した。ムスリム連盟が選挙で圧勝したのは、ベンガルやパンジャーブ州の地方政党の地盤を切り崩すことに成功したからである[21]。1946年3月、イギリスは、ムスリムとヒンドゥーの対立を収拾する閣僚使節団を任命して、3層構造の連邦案を提示した。この連邦案に基づくと、州のグループ分けを実施し、ムスリムが多数派を占める東・西の地域とヒンドゥーが多数派を占める中央部・南部とグループ分けを行い、防衛・外交・交通・通信を統括する連邦政府のもとに位置づけた。また、その各グループには大きな自治権を付与することとした。イギリスが提示した連邦案は、国民会議派・ムスリム連盟の主張を同時に満たそうとするものであり[22]、ジンナーはこの連邦案を了承した。一方、ネルー率いる国民会議派は、イギリスの連邦案はインドの一体性は保たれるものの中央政府の権限があまりにも貧弱であることを危惧した。実業界も将来のインドは強い中央政府による指導の下、貧困のない工業国にしなければいけないと考えていた。7月10日のネルー演説により、各州がどのグループに加わるかは自由に判断すべきと宣言したことにより、統一インドの芽が絶たれることとなった[22]

ジンナーの立場は窮地に陥った。ここでジンナーは8月16日、後にカルカッタの大虐殺の名前でも知られる直接行動(en)を訴えた[23][24]。ジンナーは、直接行動の日において、ムスリム側は、「どんな様式、形態においても直接的な暴力行為に訴えるための日であってはならない[25]」と考えていたが、実際には、暴動が発生した5日間で4000人以上のヒンドゥーとムスリムが死亡し、数千人が負傷した[24]。また、ビハール州では7000人のムスリムが殺害される一方、ベンガルのノアカリ地域でも数千人のヒンドゥーが殺害されるという事態になった。このことにより、立憲主義者であり続けたジンナーの苦悩は募ることとなり、国民会議派はジンナーに対しての期待を一切捨て去ることとなった[25]

国民会議派は、ムスリムが政権を握る各州で攻勢を強め、パンジャーブ州と北西辺境州で政権を掌握していた。ジンナーは、シンド州とベンガル州におけるムスリム連盟の基盤強化に努めることとなった。シンド人とパンジャーブ人との間では、相克関係があったが、州分権主義と引き換えに、強力な連盟政権が成立した[25]。暴動が治まらないベンガルで、事態を収集する方法は宗教を横断する形での連立政権であったが、国民会議派との連立はジンナーが認めるものではなかった[25]

1946年10月25日、中間政府の設立が宣告された[26]


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