オスマン帝国と連合国との停戦に向けた協議は、まずオスマン帝国が、捕虜としていたイギリス陸軍少将チャールズ・タウンゼンド
(英語版)(クートの戦いで1916年に降伏して以来オスマン軍の捕虜となっていた)をイギリス軍の拠点であったムドロス港へ派遣したことによって開始された。連合国軍のイギリスとフランスとの間にはエーゲ海での連合国艦隊の指揮をめぐって1918年には反目が生じており[2]、フランスがブルガリア王国とのサロニカ休戦協定で単独行動を取っていたこともあり[3]、イギリス海軍ゴフ=カルソープ提督はフランス抜きで中東での戦後の覇権を確固たるものとすべく[2]停戦交渉を始めた。この休戦協定は、表面上はオスマン帝国とイギリスとの間で結ばれているが、ほとんどの条文は同年10月7日の連合国の会議で決められた内容であった。しかし、イギリスがオスマン帝国と交わした最終的な条文には大きな変更点もあった。まず、当初案では、オスマン帝国軍はキリキア(戦後のフランス勢力圏)からの即時撤退が求められていたが、イギリスによる最終案では治安維持のためのオスマン軍の残留が認められていた。また、連合国軍がオスマン帝国内の要地を占領できる権利については、「連合国の安全が脅かされた場合」という文言が追加され、トルコ国内の反乱への対応だけでなくロシア内戦への干渉のためにもオスマン帝国内の要地を使用できるという含みを持たせた[4]。 この休戦協定の後、条文に基づいて英仏伊軍がイスタンブール占領
締結後
1920年8月10日には、この休戦協定を恒久的に拡大させる講和条約、セーヴル条約が連合国とオスマン帝国との間に締結され、オスマン帝国は列強、ギリシア、その他新たに独立するアルメニアやクルディスタンによって分割されることが決まった。
しかし、これに対してはアンカラ政府によるトルコ独立戦争(希土戦争)が発生し、結果としてオスマン帝国は滅亡し、新たに建国されたトルコが失地を回復し、1923年7月24日に西欧諸国とローザンヌ条約を結ぶに至った。
関連項目
休戦協定 (第一次世界大戦)
セーヴル条約
トルコ革命
脚注^ Karsh, Efraim, Empires of the Sand: The Struggle for Mastery in the Middle East, (Harvard University Press, 2001), 327.
^ a b Paul C. Helmreich, S. 3f.
^ Paul C. Helmreich, S. 31, Fusnote 2
^ Paul C. Helmreich, S. 4
参考文献(英語版)
Laura M. Adkisson Great Britain and the Kemalist Movement for Turkish Independence, 1919-1923, Michigan 1958
Paul C. Helmreich From Paris to Sevres. The Partition of the Ottoman Empire at the Peace Conference of 1919-1920, Ohio 1974, S. 3-5, der gesamte Vereinbarungstext befindet sich auf S. 341f.
Patrick Balfour Kinross Ataturk : a biography of Mustafa Kemal, father of modern Turkey, New York 1965
Sir Frederick B. Maurice The Armistices of 1918, London 1943
The text of the Armistice of Mudros, Turk Tarih Kurum (トルコ語)