ムスリム同胞団は、1952年の王政打倒に参加したが、のちにエジプト共和国→アラブ連合共和国の大統領となったナーセルの暗殺を謀ったと訴えられたため、弾圧された。暗殺を謀ったとされている犯人は地元の人によると数日前から警察に拘束されており、暗殺を企てるのは不可能だと考えられる。1970年からのサーダート政権下で組織再編が進められ、弾圧されながらも過激主義を排し、議会を通じた政治活動など穏健派のイスラム主義運動となった。同胞団は、大衆を対象にさまざまな社会活動を展開したことで成長を遂げた組織であり、宗教的な活動はもとより、医療・教育・相互扶助などの社会奉仕活動も行っており[11]、これらの貧困層救済活動などを通じ農村部での支持が強い一方、全国での支持率は20パーセント程度にとどまっている[12]。
2011年エジプト革命でも急進的な主張や行動は行っていない。なおパレスティナでイスラエルへの抵抗運動を続けているハマースの母体も同胞団である。2010年末から2011年にかけて起こったアラブ世界における民主化運動(「アラブの春」)により、同地域では権威主義体制が崩壊し、あるいは政治的自由化の進展がみられるようになったが、それ以前の中東諸国においては、政治における民主化を要求する同胞団は、非民主的な政治運営を進めてきた政権側にとって好ましい存在ではなく、それゆえ各国の政権は団員の逮捕・資産凍結などの抑圧的な姿勢を採ってきた[1]。そのため、研究者が同胞団に関する調査を進めることには困難さがともない、イスラム社会で果たしてきた同胞団の重要性に対し、その研究蓄積は必ずしも豊富なものとはいえない状況にある[1][注釈 2]。 1920年代のエジプトは、イギリスの被保護国として事実上の植民地となったムハンマド・アリー朝(1805年-1953年)の統治下にあり、旧態依然たるイスラム文化を否定し、イギリスからの独立を目指す世俗的な民族主義が台頭していた。イスラームに依拠した社会改革や国家建設を理想としているイスラーム主義者たちから見れば、こうした現実は好ましいものではない。そのため彼らは、世俗主義体制や西洋的近代化へと大きく傾斜した社会を変革しようと、政治への働きかけを始めた[13]。 エジプトの小学校教師ハサン・アル=バンナーは、西洋式の教育機関・師範学校(ダール・アル=ウルーム)の出身者であった。彼は西洋列強に対抗できない伝統的なウラマーたちに対して疑念を持ち、ジャマールッディーン・アフガーニー、ムハンマド・アブドゥフ、ラシード・リダーの系譜に連なるイスラーム改革思想
歴史
前史
同胞団の誕生ムスリム同胞団の創設者ハサン・アル=バンナー
1928年、ハサン・アル=バンナーはイスマイリアにおいて、西洋からの独立とイスラム文化の復興を掲げる「イスラームのために奉仕するムスリムの同胞たち」を結成した。当初はスエズ運河地帯を中心に活動し、慈善活動・信仰のための小さな集まりに過ぎなかったが、バンナーの人柄も手伝って急速に勢力を拡げた。1932年に本部をカイロに移してからは全国に活動範囲を広げた。当時のエジプトは近代化のなかで新しい社会階層・政治勢力「大衆」が生まれ(大衆社会の成立期)、同胞団は大衆に立脚した「教宣(ダーワ)」活動を展開したことで急速な発展を遂げた。包括的イスラーム復興を目指し、活動分野も教育活動・学生運動・政治活動・企業経営・労働問題対策・女性組織化・医療活動・ボーイスカウト・スポーツクラブと多岐に渡っていた。