ムスティエ文化
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ボルドは各個別集団がそれぞれの石器を使用していたと判断、集団の文化伝統の違いがムスティエ石器の違いに繋がると考えていたが、それに対してビンフォードは狩猟、木工などの各遺跡で行なわれた活動の違いに繋がると考えていた[25]

ボルドの主張によればフランスのドルドーニュ県のペシュ・ド・ラゼ(Pech-de-l'Aze)遺跡では典型的ムスティエ、鋸歯縁石器ムスティエ、典型的ムスティエという順番に一連の層位が発見されており、近隣のコンブ・グルナル(Combe-Grenal)遺跡で発見された典型的ムスティエ文化と平行していたことが明らかにされた。そこで、それぞれのムスティエ文化が進化の過程で現れたものではなく、同時進行で営まれていたとしているがこれは文化を担った人々が定住して活動していたと結論付けた。そして、マイラ・シャクリー (en) はそれぞれの石器製作者らは同じ仕事を同じように行なったが、作成した石器が異なり、ネアンデルタール人の各集団はそれぞれ独自の規格を持っていたと推測している[26]

それに対して、ビンフォードはムスティエ石器の違いは地域という体系の中の要素と考え、中期旧石器の人々が移動していたと判断、拠点的野営地と作業野営地が存在したと主張した。ビンフォードによれば拠点的野営地では野営地の維持のために典型的ムスティエ文化、アシュール伝統ムスティエ文化A型、B型が使用され、作業的野営地ではシャラント型ムスティエ文化キナ型、フェラシ型、鋸歯縁石器ムスティエ文化が狩猟、原材料の獲得に使用されたとしており、機能よりも時代に関係があると主張した[27]

この論争は1960年代から80年代まで続けられたが、結局、結論がでることはなかった。しかし、ビンフォードの主張は遺跡の機能差を考慮するという斬新な観点であり、それまで伝統差や時代差のみを考慮していた学界に大きな反響を呼ぶ事となった[25]

その後、新たにハロルド・ディブル (en) によって石器の再加工、利用石材の差などを考慮した機能的解釈も主張されている[25]
各地域のムスティエ文化

日本にこの時代に人類が到来していたとする確証は存在しない。ただし、赤城山山麓の権現山の中部ローム層においてスクレイパーや槌が工事中に発見されているが、これらの石器はこの時期と同程度と推測されている[28]
ヨーロッパ
イギリス

ブリテン島のアシュール伝統ムスティエ文化のハンドアックスはイプスウィッチ間氷期後期からデペンス氷期前期の極僅かな期間に作成されたものであり、大陸でいうところのリス=ビュルム最終間氷期 (en) とビュルム最終氷期に当たる[29]

ブリテン島のアシュール伝統研究の結果、イプスウィッチ間氷期後期からデペンス氷期前期にムスティエ文化のハンドアックスはブリテン島各地に拡散しており、北部ケント州、南部ハンプシャー州、中央ウーズ渓谷、ロンドンでにおいて発見されたが、彼らは狩猟の為に短期間、ブリテン島に滞在したと考えられているが、現段階では遺蹟は一箇所でしか発見されていない[30]
フランス

フランスではムスティエ文化に関する多くのものが存在する。1908年にブイソニー(Bouyssonie)兄弟により、ラ・シャペロー=サン(fr)においてムスティエ文化期の石器とともにネアンデルタール人の頭骨が発見された。さらに1909年にはドルドーニュ地方のラ・フェラシーにおいてダニー・ペイロニー(fr)とルイ・カピタン(fr)らが発掘してネアンデルタール人の骨格を発見しており、その翌年、アンリ・マルタン(Henri-Martin)がラ・キーナ(fr)の遺蹟で2体のネアンデルタール人を発見しているがいずれもムスティエ文化層からである[# 12][32]。また、ネアンデルタール人は炉を使用していた形跡も発見されている[33]
スペイン

カンタブリア地方のエル・カスティージョ洞穴(El Castillo、エル・カスティーリョ洞窟[34])のムスティエ文化層が発掘されている。ここでは100点もの資料が発掘され、十分な量の資料が与えられることになったが、発掘調査中に多数の遺物が失われたことが報告されている。このエル・カスティージョ洞穴とコバ・ド・ボロモル遺跡はムスティエ文化層が多数発見されている[35]
イタリア

リパロ・タグリエント(Riparo Tagliente)、グロッタ・フォッセローネ(Grotta Fosselone)、グロッタ・モッセリーニ(Grotta Moscerini)らでムスティエ文化層が発見されているが、これらはムスティエ文化層が多数重なる多層遺跡である[35]
ギリシャ

ギリシャではムスティエ期の石器がエピルステッサリアエリスアルゴリスなどの洞窟、開地遺跡で発見されており[36]、アスプロチャリコ遺跡ではムスティエ文化層が重複している[35]。これらはルヴァロワ技法で作成された剥片や両面加工の尖頭器、横型削器、鋸歯状石器が発見されているが、独立した文化層は発見されていない[36]。しかし、紀元前6万年前までには環地中海地域においてムスティエ文化が広まっていた事が確認されている[37]
クロアチア

クロアチアクラピナではドラグティン・ゴルヤノヴィッチ=クランベルガーの発掘調査において、ムスティエ文化期の石器とネアンデルタール人の化石遺体が発見されている[38]
シベリア

シベリアはムスティエ文化が主に見られるヨーロッパ西アジアとは離れた位置にもかかわらず、ムスティエ文化の分布が見られる。また、ルヴァロワ技法の対象が縦長剥片や石刃の剥片に使用されており、後期旧石器時代に見られる石刃技法とルヴァロワ技法の中間の技法を使用している。これらの技法は在地のルヴァロワ技法から生じたと考えられており、これが後にシベリア、モンゴル中国北部の一部へ広がったとも考えられている[39][# 13]

ムスティエ文化がシベリアにまで広がっていると推察したのはアレクセイ・オクラドニコフ (en) とO.M.アダメンコの両者であり、アルタイ地方ルプツォフスキー地区 (en) のボブコヴォ遺跡でマンモスの牙、バイソンの角と共に発見された縦長剥片を分析、形式学的、技術的、地層からシベリアにおいて初めて発見されたルヴァロワ・ムスティエ石刃であると考察、さらにゴルノ・アルタイ自治州(現アルタイ共和国)のウスチ=カン地区 (en) のウスチ・カン洞穴では1954年、I.M.パヴリュチェンコが試掘して以来調査が続けられたが、セルゲイ・ルデンコ (en) の報告によれば地表下40cmから1.2mの文化層3層から5層にかけて、哺乳動物や鳥類の骨、そしてルヴァロワ石刃・剥片などが多数発見されていた。これは上部更新世からアルタイの最終氷期直前頃の石器群であるとルデンコは判断していたが、オクラドニコフはムスティエ文化タイプの尖頭器、円盤型石核がウスチ・カン洞穴で発見されたことを発表した[41][42]

しかし、当初、シベリアに中期旧石器時代の存在自体は否定されていなかったが、エニセイでは新石器時代に至るまでムスティエ型のものが存在し続けるため、ウスチ・カン石器群をムスティエ文化と断定するのは時期尚早であるとオクラドニコフは判断しており[43]、そのためウスチ・カン洞穴は当初、ムスティエ文化とは判断されず、その後、S.N.アスタホフやN.K.アニシュートキンらの本格的研究により同遺跡がムスティエ文化の後期、もしくは最終末のものであると考察され、シベリアにおける中期旧石器文化の研究が新たな扉を開くことになった[42]

シベリアにおける旧石器文化の第3期を成すムスティエ文化の中心は北緯50度以南、東経85度以西であるが、その範囲はエニセイ川中流の北緯55度にまで及んでいる。1974年にZ.A.アブラーモヴァによって発見されたアバカン市のドヴグラスカ洞穴ではルヴァロ三角型剥片などが発見され、クラスノヤルスク貯水湖左岸のクルタク遺跡群やカーメンヌィ盆地遺跡でも同様なものが発見され、現在ではアンガラ川流域まで広がる可能性が断片的ではあるが発見されている[44][41]

さらに1966年にトムスク大学の洞穴学者であるA.チェルノフとL.ポポフらによって発見されたチゲレク村のストラーシュナヤ洞穴でも1969年から1970年にかけてA.P.オクラドニコフとN.D.オヴォドフ、1989年にA.P.デレヴャンコらによって発掘調査が行なわれた。ここでもルヴァロワ石核、ルヴァロワ石刃、ルヴァロワ剥片が発見されているが、これらはウスチ・カン洞穴よりも古い石器群と見做されている[45]

また、アルタイ地区のオビ川上流のアヌイ川右岸のデニソワ洞穴、カーミンナヤ洞穴、ウスチ・カラコル洞穴、オビ川下流のソロネシュノエ地区にあるオクラドニコフ(記念)洞穴などでもムスティエ文化の流入が見られており、ムステリアン尖頭器、ルヴァロワ剥片、ルヴァロワ石核などが発見されており[46]、2010年に今までの知られている人類とは異なる人類(デニソワ人)が営んでいた可能性が発表された[47]


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