ムアンマル・アル=カッザーフィー
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エジプトのナーセルの地位が大佐であったため、自らもニックネームとして大佐を名乗ったのが定着した。また2011年2月23日の中日新聞及び東京新聞国際面の特派員記事によれば、カッザーフィーは軍籍を離れて久しいが、「リビアでは、元軍人に敬意を払うため、退役した時の最終階級で呼ばれる慣習がある」ため、以後もニックネームで大佐と呼ばれているにすぎないという。
「大佐」は軍事上の階級であるという説
カッザーフィーの軍事上の階級はもともと中尉(????? ???, mul?zim ?awwal, ムラーズィム・アウワル)であったが[8]、1969年の革命によって、エジプトのナーセルに倣って儀礼的に大佐に昇格した。その後も、革命の初心を忘れないようにということで大佐の階級のままであった。在東京のリビア人民局(事実上の大使館)はこの説明を採っていた[9]。ただし、カッザーフィー自身は「私はもう軍人ではないので『大佐』と呼ばないで欲しい」と発言していたという[10]
生涯
生い立ち

1942年、カッザーフィーは、リビアの砂漠地帯に住むベドウィンアラブ化したベルベル人のカッザーファ部族)の子として、スルトで生まれた。ムスリムの学校で初等教育を受ける。第一次中東戦争の影響を受け、エジプト自由将校団の中心人物であるガマール・アブドゥル=ナーセルのエジプト革命に魅せられ、アラブの統一による西洋、特にキリスト教圏への対抗を志す。1956年スエズ危機では反イスラエル運動に参加する。ミスラタで中等学校を卒業、歴史に特に興味を示した。
軍人として

1961年ベンガジ陸軍士官学校に進んだ。在学中から仲間たちとサヌーシー朝王家打倒を計画し自由将校団の組織を始める。1965年に卒業するとイギリス留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の将校となる。ただしイギリスに留学経験があるものの英語は苦手のようで、1986年4月に米軍がトリポリを空爆し米・リビア関係が極度に緊迫した時期、アメリカのある小学校の生徒たちがカッザーフィーに世界平和を求める手紙を書いて送ったところ(先制攻撃したのはアメリカなのだが)、カッザーフィーは全員に英語で返事を書いたが、文法やつづりが間違いだらけだったという逸話がある。2007年8月の朝日新聞国際面の特集でも「カダフィ大佐は外国要人と会談する際に最近、英語も上達してきたようだ」との特派員の記述がある。
政権掌握クーデター成功後、アラブ首脳会議に出席したカッザーフィー(中央軍服姿)
両隣にナセル(エジプト)とアタッシ(シリア)の両大統領。

1969年9月1日、カッザーフィーは同志の将校たちと共に首都トリポリクーデターを起こし、政権を掌握した。病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は廃位されて王政は崩壊、カッザーフィー率いる新政権は共和政を宣言して国号を「リビア・アラブ共和国」とした。同年11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命指導評議会(日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた)が共和国の最高政治機関となることが宣言された(カッザーフィーが革命指導評議会議長と公表されたのは翌年)。1969年リビア革命の10周年を記念して発行されたカッザーフィーの肖像入りメダル

カッザーフィーは1973年より「文化革命」を始め、イスラームアラブ民族主義社会主義とを融合した彼独特の「ジャマーヒリーヤ」(直接民主制と訳される)という国家体制の建設を推進していった。翌年には「政治理論の研究に専念するため」として革命評議会議長職権限をナンバー2のジャルード少佐に委譲した(あくまで権限移譲であり、退任はしなかった)。1976年には毛沢東語録に倣い[11][12]、自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版した。緑とは、イスラームのシンボルカラーで、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を象徴する。そして1977年、カッザーフィーは人民主権確立宣言を行い、「ジャマーヒリーヤ」を正式に国家の指導理念として導入した。これにより、国号も「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国[13]」(1986年に「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」と改称)に改められた。ジャマーヒリーヤ体制のもと、国権の最高機関として全国人民会議が設置され、カッザーフィーが初代全国人民会議書記長(国会議長職に相当し国家元首としての権能も有した)に就任した。その後カッザーフィーは1979年に全国人民会議書記長を辞任して一切の公職を退いたが、「革命指導者」の称号のもと、実質上の元首としてリビアを指導した。
汎アラブ主義・反米主義路線

カッザーフィーは、ナーセルの汎アラブ主義の後継者として1972年にはエジプトのアンワル・アッ=サーダートシリアハーフィズ・アル=アサドと組んで汎アラブ主義三か国によるアラブ共和国連邦を構想したが、本格的な統合を見ないまま5年後に解消している。1970年代はカッザーフィーの汎アラブ思想に振り回されたエジプトのサーダート大統領からは「頭のてっぺんから足の爪の先まで狂っている男」と評されており、中華人民共和国にアブデルサラム・ジャルード(英語版)首相を派遣して核兵器の購入を申し出て中国政府を驚愕させたこともあった[14]。後にリビアがIAEAの査察を受け入れた際に中国製の核爆弾設計図が報告されるもこれはパキスタンから流入したものとされる[15]2008年4月、プーチンとカッザーフィー

カッザーフィーはパレスチナ解放機構 (PLO) の有力かつ公然の支持者であった。そのため1979年にサーダート大統領がイスラエルと和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させた。また、資金援助などを通じて西アフリカを中心に影響力を維持していたほか、地域機関であるサヘル・サハラ諸国共同体 (CEN-SAD) を創設し、アフリカにおける影響力拡大の足場としていた。

当時のカッザーフィーの欧米諸国との関係は常に対立的で、アラブ最強硬派と目されていた。1984年の駐英リビア大使館員による反リビアデモ警備をしていた英国警官射殺事件 (Murder of Yvonne Fletcher) 、1985年のローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件、1986年の西ベルリンディスコ爆破事件など、テロ支援の問題から欧米との関係は悪化の一途をたどり、1970年代1980年代欧米イスラエルに対する過激派のテロを支援した疑惑がもたれていた。それに対し、アメリカはカッザーフィーの居宅を狙って空爆する強硬手段(リビア爆撃)を取り、カッザーフィーを暗殺しようとした。カッザーフィーは外出しており危うく難を逃れた。1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。そのためリビアは当時のアメリカロナルド・レーガン政権から「テロリスト」「狂犬」として名指しの批判を受け、以後アメリカとの対立は続いた。

この経験から、以降は住む場所を頻繁に変えていたという。また、この空爆の直前、作戦に反対だったイタリア政府(当時政権の座にあったベッティーノ・クラクシ首相、ジュリオ・アンドレオッティ外相の決断による)から極秘に空爆を通告されていたことが後日判明した[16]。汎アラブ主義に対する評価はさまざまであるが栗本慎一郎等一部保守派の中にも死後に「カダフィーの内政やテロ支援での独裁政治はともかく石油関税自主権国際石油資本から取り戻し国民にも一定の繁栄をもたらした。


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