ミロス・フォアマン(Milo? Forman [?m?lo? ?forman]、本名:Jan Toma? Forman、1932年2月18日 - 2018年4月13日[1])は、チェコスロヴァキア出身のアメリカ合衆国の映画監督。ミロシュ・フォアマンとも。チェコ・ヌーヴェルヴァーグの一員として活動した後アメリカに拠点を移し、アカデミー監督賞を2回受賞している[2]。 チャースラフ生まれ。第二次大戦中はプロテスタントの両親に育てられたが[3]、実の父がユダヤ人の建築家オットー・コーンであった事を後に知る[4]。養父ルドルフ・フォルマンは大学教授だが反ナチ思想の持ち主としてゲシュタポから尋問を受けた後、禁書を学生に配った罪で逮捕され、ブーヘンヴァルトで死亡。母もアウシュヴィッツで亡くなった[3]。このため、親戚や友人の家を転々として育つ。 1951年にプラハの国立映画学校で学び、1960年代からはチェコ・ヌーヴェルヴァーグの一員として活動。『ブロンドの恋』(1966年)と『火事だよ!カワイ子ちゃん』(1968年)が自身の監督作品として連続でアカデミー外国語映画賞にノミネートされ、東欧世界を代表する映画監督として認知されるようになる。 しかし、60年代後半に起きたチェコ事件を機にアメリカに移住し、1970代以降はアメリカでの映画製作に専念するようになる。まず、英語圏での第1作目となった『パパ/ずれてるゥ!』(1971年)は批評家からは酷評されるも、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞。その直後には、舞台化もされていた小説『カッコーの巣の上で』の映画化に際して監督として雇われる。1975年に公開された本作は、批評的・興行的成功を獲得。更には史上2本目となるアカデミー賞主要5部門受賞作品となり(自身も監督賞を受賞)、現代においてもアメリカン・ニューシネマの傑作としてカルト的影響を与えることとなった。同年にはアメリカの市民権を取得し[5]。その2年後にはコロンビア大学の映画学科教授に就任した。 その後も『ヘアー』(1979年)『ラグタイム』(1981年)といった超大作を次々と監督していき、ハリウッドでの地位を固めていく。1984年の『アマデウス』では、2度目となるアカデミー監督賞を受賞[2]し、作品自体も再び作品賞に輝いた。 1990年代に入っても精力的に活動を続け、『ラリー・フリント』(1996年)でベルリン国際映画祭金熊賞を、『マン・オン・ザ・ムーン』(1999年)で同映画祭の銀熊賞 (監督賞)を受賞した。
経歴・人物