ミルウォーキー・ブルワーズ
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この球団は1954年にボルチモアに再移転(1950年代の移転ブームのさきがけとなった)してボルチモア・オリオールズとなり、現在に至る。1953年にはボストン・ブレーブスがミルウォーキーへ移転するも、ブルワーズは名乗らずブレーブスのままであり、この球団も1965年限りでアトランタへ再移転した。
アメリカンリーグ時代

現在のチームはエクスパンション(英語版)(球団拡張)によって1969年に創設されたシアトル・パイロッツが前身である。パイロッツはシアトルで1年だけ活動したが早くも財政的に行き詰まり、これをのちのMLBコミッショナーバド・セリグが買収してミルウォーキーに移転させ「ミルウォーキー・ブルワーズ」に改称、ブレーブスも使用していたミルウォーキー・カウンティ・スタジアムを本拠地球場とした。尚パイロッツを失ったシアトル側は移転が不当であるとしてMLB機構を告訴。これに対しMLB機構は1977年の球団拡張でシアトルに球団(シアトル・マリナーズ)を設置するという条件を提示し、告訴は取り下げられた。

ミルウォーキー移転直後はシアトル・パイロッツ時代と同じくアメリカンリーグ西地区に所属していたが、1972年からはワシントン・セネタースがテキサス州アーリントンへ移転したことに伴い、そのテキサス・レンジャーズと入れ替わりにアメリカンリーグ東地区へ移動した。

1970年代は優勝とは縁のない弱小球団だったが、ロビン・ヨーントポール・モリターセシル・クーパーゴーマン・トーマスらが台頭するなど徐々にチーム力が向上、1978年に初めて勝率を5割に乗せる。50日間に及ぶストライキの影響で前後期制となった1981年に後期優勝を果たすが、地区シリーズで前期優勝のニューヨーク・ヤンキースに敗れた。翌1982年には、両リーグトップのチーム本塁打216本の強力打線を武器に、95勝67敗で初の地区優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでは西地区優勝のカリフォルニア・エンゼルスと対戦し、2連敗と追い込まれたが、その後3連勝で下し、初のリーグ制覇を成し遂げた。ワールドシリーズではチーム本塁打67本で両リーグ最下位のセントルイス・カージナルスと対戦し、3勝4敗で敗れた。1983年には球団史上初めて観客動員数が200万人の大台を突破した。

1985年には江夏豊がメジャー入りを目指しスプリングトレーニングに参加し、メキシカンリーグ出身の左腕、テディ・ヒゲーラと最後の一枠を争う。江夏はキャンプ終盤に調子を落とした事と36歳(当時)という年齢がネックとなり、メジャー入りは果たせず現役を引退、ヒゲーラはこの年15勝をあげる活躍を見せ、一躍メジャーリーグのエース級投手の仲間入りを果たした。

1987年はMLBタイ記録となる開幕13連勝と最高のスタートを切るものの、5月3日から19日にかけて12連敗を喫している。4月15日にはフアン・ニエベスが球団史上初となるノーヒットノーランを達成。またモリターが戦後アメリカンリーグ最長となる39試合連続安打を記録した。91勝71敗で地区3位に終わり、地区優勝を逃した。

1992年はトロント・ブルージェイズと4ゲーム差の地区2位に付けるが、それ以降は5年連続で勝率が5割を下回り、低迷が続く。1994年には3地区制導入に伴いアメリカンリーグ中地区に移動した。
ナショナルリーグ移籍以降

1997年、翌年から球団拡張によってタンパベイ・デビルレイズ(現・タンパベイ・レイズ)とアリゾナ・ダイヤモンドバックスの2球団が加わるため、地区再編が検討された。両リーグ共に15球団ずつになると、常に試合のないチームが発生するため、どちらかのリーグを14球団に、もう一方を16球団にすることとなった。話し合いの結果、アメリカンリーグを14球団に、ナショナルリーグを16球団にすることが決定した。そしてデビルレイズはアメリカンリーグ東地区に、ダイヤモンドバックスはナショナルリーグ西地区に所属することになり、デトロイト・タイガースがアメリカンリーグ東地区から中地区へ移動した。よってナショナルリーグへ移動するのはアメリカンリーグ中地区所属球団のいずれかとなった。第一候補はカンザスシティ・ロイヤルズで、第二候補はブルワーズかミネソタ・ツインズだった(シカゴ・ホワイトソックスクリーブランド・インディアンスは候補として挙がっていたかどうかは不明)。1997年のワールドシリーズ終了後にもロイヤルズがナショナルリーグへ移動する見通しであったが、ロイヤルズが突如アメリカンリーグ残留を表明したため、ブルワーズが移動することとなった。

結果的には、ミルウォーキー出身で元ブルワーズのオーナーでもあったMLBコミッショナーのセリグの意向に沿う形となった。シカゴ近郊で、そのマイナーチームもあったことからシカゴ・カブスの人気が根強いミルウォーキーの関係者も、この際ナショナルリーグに移籍し、カブスと同地区で頻繁に対戦することで観客動員の増加を期待していたと考えられる。また、当時強豪チームだったインディアンスと袂を分かつことでポストシーズン進出を狙いやすくする、DH制のないナショナルリーグということで年俸総額を削減できる狙いもあった。全盛期のハンク・アーロン擁するブレーブスが短期間ながらミルウォーキーを本拠としていたため、ミルウォーキーといえばナショナルリーグのイメージが強かったというのもある。
2000年代

2000年MLBドラフト1巡目でコーリー・ハートを獲得した。

2001年に天然芝で開閉式屋根付きの新本拠地ミラー・パークが開場した。それに伴いチームロゴ・ユニフォームも一新された。当初は2000年の開場予定であったが、建設中の事故により開場が1年遅れるというアクシデントも起こった。新球場効果で観客動員は大幅に増加するがチームは一向に浮上の兆しがなく、ベン・シーツリッチー・セクソンなど若手の台頭はあった。

2002年に球団ワースト記録となる106敗を喫して地区最下位に転落、2004年まで3年連続最下位及び12年連続負け越しとなった。

2004年は5月25日にハートがメジャーデビューを果たした。

2005年はセリグオーナーから約2億ドルでマーク・アタナシオが球団を買収。MLBドラフト1巡目でライアン・ブラウンを獲得した。チームは13年ぶりに勝率を5割に乗せ、プリンス・フィルダーリッキー・ウィークスJ・J・ハーディコーリー・ハートといった選手が頭角を現してきた。

2006年は故障者の続出もあって再び負け越しでシーズンを終えた。

2007年は5月25日にブラウンがメジャーデビューを果たした。最終的に前半戦こそ首位を独走したが終盤に失速、カブスに地区優勝を攫われ、ポストシーズン進出もならなかった。しかしフィルダーがシーズン50本塁打で史上最年少(当時23歳)の本塁打王を獲得、ブラウンが新人王に輝くなど若手選手が台頭したシーズンとなった。

2008年はシーズン開幕前の3月4日にジョン・アックスフォードと契約を結んだ。シーズンでは前年のサイ・ヤング賞投手だったCC・サバシアをトレードで獲得。その大車輪の活躍もあって、カブスに次ぐ地区2位となりワイルドカードを獲得したが、ディビジョンシリーズフィラデルフィア・フィリーズに1勝3敗で敗退した。


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