現在ミラノの人口はおよそ140万人(ミラノ都市圏はおよそ435万人)で、ローマに続くイタリアで2番目に大きな都市である。ミラノは国際的な都市で、アジア系(おもにフィリピン人、中国人、スリランカ人)、ラテンアメリカ系(おもにペルー人、エクアドル人)や北アフリカ系(おもにエジプト人やモロッコ人)が多い[13]。ミラノはイタリア唯一の中華街がある。ミラノはイタリア経済と金融の中心地で、領事館や機関の数も多い。ミラノにはイタリア最多のおよそ2,000人の日本人が在住しており、日本人学校も存在する。ミラノの人口は1900年に50万を超え、1933年に100万、1971年に173万を超えたが、その後人口が減少し2001年にはおよそ125万人だった。 ミラノは古代にはメディオラヌム(メディオラーヌム)と称され、紀元前600年のケルト人の町を元にしている。前222年にローマが征服したが、そのどちらにもMediolanum(平原の真中)と称され、293年から402年まではMailandとも称された。その後はローマ帝国のもとで繁栄した。4世紀、司教アンブロジウスと皇帝テオドシウス1世の時代には西ローマ帝国皇帝の宮殿が置かれ、西ローマ帝国の首都であった。450年ごろ、アッティラに指揮されたフン族の略奪をうけ、539年にはゴート族に破壊されたが、8世紀末ごろに再び繁栄し始めた。 中世を通じてミラノは大司教に統治されたが、都市の独立性をある程度保ちながら、下層の封建貴族たちは次第に大司教の世俗的支配から脱していった。東ゴート王国、東ローマ帝国、ランゴバルド王国の時代を過ぎ、11世紀にはそうした貴族たちがミラノを富裕な自治都市へと変化させ、成長の回復と神聖ローマ帝国からの独立を果たした。1162年、ミラノは神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世の軍隊に破壊された。しかしすぐに復興し、ロンバルディア同盟を結成して、1176年にはレニャーノの近くでフリードリヒ1世を打ち破った。この勝利でミラノは新しい繁栄の時代を迎えた。1277年、貴族のヴィスコンティ家が、領主のデッラ・トッレ家からミラノの統治権を奪った。 中世後期とルネサンス時代にはミラノはヴィスコンティ家とスフォルツァ家のミラノ公国になった。1395年にミラノ公の称号を授かった初代ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351年-1402年)の時代には繁栄をきわめ、黄金時代を迎え、ヴィスコンティ家の支配は1447年まで続いた。 1450年には軍人フランチェスコ・スフォルツァが権力を握り、ミラノの統治者としての地位を固めた。続いて息子ルドヴィーコは学芸の保護にも熱心でレオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに迎えた。しかし、15世紀の北部イタリアの拡張時代後の1500年、フランス軍がこの町を占領。このときレオナルドもミラノを去るがのちに再訪、約20数年の滞在はこの地にミラノ派 イタリア戦争後のカトー・カンブレジ条約(1559年)により、ミラノは神聖ローマ帝国、次いでスペインハプスブルク家の統治下に入った。18世紀初頭のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によってオーストリア・ハプスブルク家に帰属することになった。ナポレオンは、1796年のイタリア戦役 (1796-1797年)でオーストリアの統治者を追い出し、ミラノをチザルピーナ共和国、イタリア共和国 (1802年-1805年)、イタリア王国 (1805年-1814年)の首都とした。1815年、ミラノは、ロンバルド=ヴェネト王国としてオーストリアの手に戻った。 1848年にミラノはイタリア統一運動の中心地となり、短期間だがヨーゼフ・ラデツキーのオーストリア軍を追放した(ミラノの5日間)。1859年の第二次イタリア独立戦争のソルフェリーノの戦いの結果、オーストリアはイタリアに対する影響力を喪失し、フランスの援助を受けたサルデーニャ王国がミラノをオーストリアから奪取した。 1861年にミラノはイタリア王国の一部に編入され、引き続き発展した。 第二次世界大戦では、イタリアが降伏した1943年以降にドイツ軍およびサロ政権の統治下に入ったため、イギリス軍やアメリカ軍をはじめとした連合国軍による激しい爆撃を受けたが、戦後急速に発展して復興をとげた。ミラノは文化的にも戦後のモダン・デザインの発信地として知られ、国際デザイン美術展であるミラノ・トリエンナーレが開催されている。 ミラノは14都市の姉妹都市を有している:
歴史詳細は「ミラノの歴史(イタリア語版、英語版)」を参照
古代
中世
ミラノ公国
諸外国の支配
イタリア王国
対外関係
姉妹都市・提携都市
ベツレヘム(パレスチナ国)
バーミンガム(イギリス連合王国 イングランド国)
シカゴ(アメリカ合衆国)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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