ミラノ
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続いて息子ルドヴィーコは学芸の保護にも熱心でレオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに迎えた。しかし、15世紀の北部イタリアの拡張時代後の1500年、フランス軍がこの町を占領。このときレオナルドもミラノを去るがのちに再訪、約20数年の滞在はこの地にミラノ派とよばれる画派を生んだ。スフォルツァ家はフランス、スイスオーストリアに操られながらも支配を続けた。1535年にスフォルツァ家の血筋が途絶え、ミラノ公国は終焉した。
諸外国の支配

イタリア戦争後のカトー・カンブレジ条約1559年)により、ミラノは神聖ローマ帝国、次いでスペインハプスブルク家の統治下に入った。18世紀初頭のスペイン継承戦争後、1714年ラシュタット条約によってオーストリアハプスブルク家に帰属することになった。ナポレオンは、1796年のイタリア戦役 (1796-1797年)でオーストリアの統治者を追い出し、ミラノをチザルピーナ共和国イタリア共和国 (1802年-1805年)イタリア王国 (1805年-1814年)の首都とした。1815年、ミラノは、ロンバルド=ヴェネト王国としてオーストリアの手に戻った。

1848年にミラノはイタリア統一運動の中心地となり、短期間だがヨーゼフ・ラデツキーのオーストリア軍を追放した(ミラノの5日間)。1859年第二次イタリア独立戦争ソルフェリーノの戦いの結果、オーストリアはイタリアに対する影響力を喪失し、フランスの援助を受けたサルデーニャ王国がミラノをオーストリアから奪取した。
イタリア王国

1861年にミラノはイタリア王国の一部に編入され、引き続き発展した。

第二次世界大戦では、イタリアが降伏した1943年以降にドイツ軍およびサロ政権の統治下に入ったため、イギリス軍アメリカ軍をはじめとした連合国軍による激しい爆撃を受けたが、戦後急速に発展して復興をとげた。ミラノは文化的にも戦後のモダン・デザインの発信地として知られ、国際デザイン美術展であるミラノ・トリエンナーレが開催されている。
対外関係
姉妹都市・提携都市

ミラノは14都市の姉妹都市を有している:



ベツレヘムパレスチナ国

バーミンガムイギリス連合王国 イングランド国

シカゴ(アメリカ合衆国)

ダカールセネガル共和国

フランクフルト・アム・マインドイツ連邦共和国

クラクフポーランド共和国

リヨンフランス共和国



メルボルンオーストラリア連邦

大阪市日本国 近畿地方 大阪府

サンパウロブラジル連邦共和国

上海中華人民共和国

テルアビブイスラエル国

大邱大韓民国

トロントカナダ連邦



経済ミラノの中心業務地区
第二次産業
工業

化学工業と繊維ではイタリアの諸都市をリードし、航空機イタリア車(自動車)、機械やガラス、皮革、ゴム製品、製薬なども重要な産業である。陶磁器では、現在ケリング傘下のリチャード=ジノリがある。
第三次産業
金融業

数多くの金融機関が集まり、イタリアの主要な株式取引所がある。また、毎年4月に国際貿易フェアが開催される。

アメリカのダウ・ジョーンズらの2013年の調査によると、世界35位の金融センターと評価されており、イタリアの都市では1位である[14]
情報・通信
マスメディア
芸能文化

出版業音楽産業等の法人が数多く集まる。
アパレル

ミラノ・コレクションが開催される地であり、アパレル産業が盛んである。おもなファッションブランドでは、エルメネジルド・ゼニアプラダヴェルサーチアルマーニジャンフランコ・フェレナラカミーチェドルチェ&ガッバーナマルニ、ダウンのタバサ、新進の時計ガガミラノなどの創業地であるほか、ヴァレンティノモンクレールレイバンなどがミラノに本社を置く。

トラサルディなどミラノ近郊ロンバルディア州内を創業地とするブランドもあり、また、ミラノから60kmほどのスイス連邦イタリア語圏ティチーノ州ルガーノにはボッテガ・ヴェネタの本社機能が置かれている。

1971年ヴァレンティノ・ガラヴァーニがミラノにブティックを開店し本社機能も移転、これを機にイタリアン・ファッションの中心地はローマから徐々にミラノへ移っていくこととなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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