再復刊後の1950年代は、ジャズや翻訳ポップスを中心に取り上げ、日本の歌手やバンドも紹介していた。表紙には「ジャズの月刊雑誌」と銘打たれているが、このころ日本ではアメリカ系のポピュラー・ミュージック全体を指してジャズと呼んでいた。
1961年、同じ新興音楽出版社から、『ダウン・ビート』(アメリカのジャズ専門誌)の日本語版が創刊されたことをきっかけに、米英のポップス・ロックの専門誌に特化していく[1]。
1960年代にはビートルズやウォーカー・ブラザーズ等、1970年代にはクイーンやチープ・トリック、ジャパン等を積極的に取り上げた。星加ルミ子や水上はる子、東郷かおる子らのロック好きの名物編集者を生んだ。星加と東郷は、70年代前半にロックのラジオ番組のDJを担当したこともある。
1977年、姉妹誌『ロック・ショウ
』を創刊。洋楽雑誌として長く最大の発行部数を誇っていたが、1987年に『rockin'on』にトップの座を譲る[1]。
70年代後半から他誌があまり得意としていなかったヘヴィメタル、ハードロックにも力を入れ、後の1984年の専門誌『BURRN!』の創刊へ発展。『BURRN!』創刊後も、ヘヴィメタル・ハードロックバンドを継続して特集していた。さらに1988年にポップス寄りのロック専門誌『クロスビート』が創刊。
関連人物
加藤省吾1946年復刊時の編集長。川田正子を取材した際に作詞を依頼された「みかんの花咲く丘」がヒットし、後に専業作詞家となる。2000年死去。
草野昌一1951年復刊時の編集長。その後、シンコーミュージック・エンタテイメント専務取締役を経て、会長。2005年死去。
星加ルミ子1965年から1975年までの編集長[3]。日本で初めてビートルズの単独インタビューに成功し、売り上げ部数を飛躍的に伸ばした。
岸部シロー1968年7月から1969年3月まで音楽特派員として活動。その後ザ・タイガースに加入。
水上はるこ1975年から1978年頃までの編集長。その後『JAM』の編集長を務めるが、わずか数年で休刊。
東郷かおる子1978年頃から1990年までの編集長。「ミーハーは素敵な合言葉」という名科白を残した。
酒井康1970年代後半から1984年頃の副編集長。1984年に日本初のヘヴィ・メタル雑誌『BURRN!』を創刊、初代編集長を務めた。
増田勇一1992年末から1997年までの編集長。休刊後はフリーライターとして現在も活動中。『BURRN!』創刊時のメンバー。
大貫憲章『一枚のレコード』というコラムをライターとして初めて執筆。
長谷部宏専属カメラマン。1965年の星加ルミ子のビートルズ単独取材に同行し、日本人カメラマンとして初めてビートルズを撮影。以降、90年代終わりまでに、数々の海外ロック・ミュージシャンを撮影し続けた[4]。
再刊
2011年1月、「MUSIC LIFE plus」としてiPad/iPhone用の無料アプリで復活。ビートルズからザ・フー、デヴィッド・ボウイまで、各号様々なミュージシャンの特集で構成され、音楽を中心に様々なライフスタイルのエッセイも掲載。有料版では昔のMUSIC LIFE誌も購入できた。2015年11月末日公開を停止[5]。
執筆陣に東郷かおる子、サエキけんぞう、いしいしんじ、川越剛、飯田和俊、鈴木惣一郎、橘野準、米田智彦など。編集長は佐藤理。
2018年4月、「MUSIC LIFE CLUB」として新たにウェブサイトが開設された[6]。
書籍
ミュージック・ライフ大全(2023年3月20日、シンコーミュージック)
脚注^ a b c 『日本ロック雑誌クロニクル』(篠原章・著、太田出版、2005年、ISBN 4-87233-897-9)p.31, 40, 46-48, 67
^ 『巻頭でお知らせしたように、この度、突然の休刊となってしまいみなさん驚かれたことと思います。実際、急な決断で編集部としても非常に心残りではあるのですが、現在の音楽シーン、これからの音楽シーンについて、また、その中における雑誌媒体の役割や必要性などを改めて考えてみるいい機会なのでしょう……』(「Asylum Choir」(お便りコーナー))
^ #28 ビートルズの出発点にはもう一度行ってみたいですね (星加ルミ子) ビートルズブログ アビイ・ロードの歩き方 2014年4月2日閲覧
^ 日本で初めてビートルズを撮影したカメラマン、長谷部宏が語る当時のロックシーンとは。 VOGUE JAPAN(2017年9月29日)
^ ⇒あのミュージック・ライフがデジタルマガジンで帰ってくる! シンコーミュージック・エンタテイメント