ミュンヘン
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ミュンヘンの人口のうち2009年12月31日現在、カトリック教会に37.8%、プロテスタント教会に13.8%、ユダヤ教には0.3%が属している[9]
歴史1900年頃に描かれたミュンヘンの町並みミュンヘンの市章
中世の街としての起源

街の創建は1158年とされている。これは日付が言及された最も古い唯一の文書からである。文書はアウクスブルクで署名されたものである[10]。当時、ヴェルフ家ハインリヒ獅子公 (ザクセン公バイエルン公) が1157年/1158年、フライジング(Freising)の司教が Oberfohring 近く、イーザル川に設置していた関税徴収橋(Zollbrucke)を破壊し、ライヘンハル(Reichenhall)からアウクスブルクに至る「塩街道」(Salzstrase)(付属する市場と造幣所を含め)を、イーザル川を約 5km 遡上したバイエルン公領に移し、ミュンヘンを都市として整備した[11]。1175年、公式に都市としての地位を得て、城壁が備えられた。

1180年のハインリヒ獅子公の破門以後、ミュンヘンはフライジングの司教の管轄下に入った。1240年ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公がこの地に根を下ろした。1255年レーゲンスブルクの帝国都市化とバイエルンの分割以後、オーバーバイエルン(Oberbayern)のミュンヘンはヴィッテルスバッハ家の公領本居地(Residenz der wittelsbacher Herzoge)となり、商工業が繁栄した。都市君主は公爵であったが、1294年には包括的な権利が付与されている。1400年ころには、塩取引・イタリア貿易を担う都市貴族による支配が形成された。1500年ころには、約14000人の人口を有する人口の多い都市になったが、中世をとおしてミュンヘンは地域的重要都市に留まり、その影響力はバイエルン公領内でもニュルンベルクアウクスブルクレーゲンスブルクの後塵を拝した[12]

1314年に神聖ローマ帝国皇帝に選ばれ1328年に戴冠したルートヴィヒ4世により、ミュンヘンには塩の専売地位が与えられ、都市として強化され収入が保証された。15世紀後半、ミュンヘンはゴシック芸術が復活し旧市庁舎が拡張された。ミュンヘン最大のゴシック建築で現在の大聖堂であるミュンヘン聖母教会(英語版)は1468年の着工から僅か20年で完成した。
再統合されたバイエルンの首都1650年頃のマリエン広場左側がミュンヘンの市旗。真ん中の聖母教会のバックを挟んで右側がバイエルンの州旗。

1506年、再び統合されたバイエルンの首都となった。宮廷による芸術や政治の影響力が増した。(オルランド・ディ・ラッソやハインリヒ・シュッツ。後にモーツァルトワーグナー)16世紀、ミュンヘンはドイツの対抗宗教改革ルネサンス芸術の中心であった。バイエルン大公ヴィルヘルム5世はイエズス会士に指示し、聖ミヒャエル教会(英語版)を対抗宗教改革の中心とした。また、ホフブロイハウスが建てられ1589年より茶色のビール(エール)の醸造が始まった。カトリック同盟 (ドイツ)が1609年にミュンヘンで形成された。1623年の三十年戦争時、マクシミリアン1世が選帝侯に選ばれその居城となったが、1632年にスウェーデン王グスタフ2世に街は占領される。1634年と1635年にはペストが大流行し、当時の人口の3分の1が死亡した。ミュンヘンはバイエルン選帝侯の統治下、バロック様式の生活の中心としてだけでなく1704-1742年にはハプスブルク家の占領下にもあった。

1806年、新たなバイエルン王国の首都となり、王国議会ラントタック(英語版)や新しいカトリック教会のミュンヘン・フライジング大司教区(英語版)が置かれた。その20年後にはルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(ミュンヘン大学)がミュンヘンに移された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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