2007年7月現在のミュンヘンの人口は134万人で、そのうち300,128人はドイツ国籍を有していない。トルコ人やバルカン半島出身者のコミュニティが広く存在する。ミュンヘンで最も多い外国籍はトルコ人で43,309人、以下アルバニア人30,385人、クロアチア人24,866人、セルビア人24,439人、ギリシャ人22,486人、オーストリア人21,411人、イタリア人20,847人などで、全体の37%は他の欧州連合諸国の出身者で占められている。ミュンヘンはドイツ最大のウイグル人コミュニティがあり、ウイグル人のための活動(例えば世界ウイグル会議)などもある。1700年には僅か24,000人でしかなかったミュンヘンの人口はその後の30年間で倍に増加した。1852年には10万人に達し、1852年には25万人になっている。1901年には再び倍の50万人にまで達した。ミュンヘンはドイツ第三の大都市となり、1933年には840,901人、1957年には100万人に達している。
ミュンヘンの人口の47.4%はどこの宗教のグループにも属しておらず、このグループは急増する人口階層を象徴している。ドイツの他地域と同様に、カトリック教会やプロテスタント教会に属する人は徐々にゆっくりと減っている。ミュンヘンの人口のうち2009年12月31日現在、カトリック教会に37.8%、プロテスタント教会に13.8%、ユダヤ教には0.3%が属している[9]。 街の創建は1158年とされている。これは日付が言及された最も古い唯一の文書からである。文書はアウクスブルクで署名されたものである[10]。当時、ヴェルフ家のハインリヒ獅子公 (ザクセン公兼バイエルン公) が1157年/1158年、フライジング(Freising)の司教が Oberfohring 近く、イーザル川に設置していた関税徴収橋(Zollbrucke)を破壊し、ライヘンハル(Reichenhall)からアウクスブルクに至る「塩街道」(Salzstrase)(付属する市場と造幣所を含め)を、イーザル川を約 5km 遡上したバイエルン公領に移し、ミュンヘンを都市として整備した[11]。1175年、公式に都市としての地位を得て、城壁が備えられた。 1180年のハインリヒ獅子公の破門以後、ミュンヘンはフライジングの司教の管轄下に入った。1240年にヴィッテルスバッハ家のバイエルン公がこの地に根を下ろした。
歴史1900年頃に描かれたミュンヘンの町並みミュンヘンの市章
中世の街としての起源