ミュンヘン一揆
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」と書いた[25]

ヒトラーは5年の城塞禁固刑(ドイツ語版)となり、ランツベルク・アム・レヒ要塞刑務所の7号室に収監される。獄中は快適で待遇は極めて良く、独房は日当たりのよい清潔な部屋、食事も上質で、差し入れや面会も自由であり、ナチス党員が身の回りの世話をした。主に面倒を見たのが、判決後に自首したヘスと運転手エミール・モーリスである。当初落ち込んで食事を取らなかったヒトラーは落ち着きを取り戻し、ハンフシュテングルらが差し入れたチェンバレン、ニーチェ、マルクス、ランケなどの大量の本を読み、自らのナチズム思想を固めていく。

後年、ヒトラーは側近に「ランツベルクは国費による我が大学であった。」と評している[26]。また、ヒトラーの著書『我が闘争』はこの時期に口述で執筆されたものである。この時期にヒトラーを励ましたのはエルナやスポンサーのヘレーネ・ベヒシュタイン(ドイツ語版)夫人(ピアノメーカーベヒシュタインの創業者一族)、チェコスロバキアドイツ国民社会主義労働者党創設者ハンス・クニルシュ(ドイツ語版)、ヒトラーが失脚させたナチスの前議長アントン・ドレクスラーなどがいる。この生活でヒトラーの体重は85kgまで増加した。

州政府の中にはこの際ヒトラーを国外追放にせよとの意見もあったが、追放先と目されたオーストリア政府の拒否に会い、立ち消えになった。判決から半年後、ヒトラーは保護観察処分に減刑され、12月20日に仮出獄した。

カールとロッソウは訴追されることなくその地位を維持したが、すでに権威は失墜していた。1924年2月18日、両者はその地位を追われ、バイエルン州と政府の関係は正常化した。一方ベルリン政府では、左派政権のザクセン州と右派政権のバイエルン州に対する対応の違いに不満を持ったドイツ社会民主党が連立を離脱、シュトレーゼマンは11月23日に首相を辞任した。後継首相のヴィルヘルム・マルクス政権下で、ヴァイマル共和政は短い安定期を迎える事になる。
ナチスの方針転換と躍進

一揆が簡単に制圧された経験でヒトラーは武力革命に見切りをつけ、言論・演説・選挙といった民主的手段による政権奪取に軸足を移してゆく。ナチスには11月9日にバイエルン州、11月23日に全ドイツにおける禁止命令が下ったが、無罪になったルーデンドルフ、すぐに仮釈放されたレーム、逮捕を免れていたグレゴール・シュトラッサーらが「国家社会主義自由党」の名で偽装政党を立ち上げ、1924年5月4日の総選挙には32議席を獲得した。さらにドイツ人民自由党と合流して「国家社会主義自由運動」となった。ドイツ闘争連盟の軍事組織はレームがフロントリングの名で維持し、後にフロントバンとなった後に、再結成された突撃隊となる。しかしローゼンベルク派と北ドイツに勢力を持つシュトラッサー派、そしてハンフシュテングルやドレクスラーらの対立は激化し、完全な主導権を握るものは現れなかった。これは獄中のヒトラーが、自らの影響力を保持するため、党内の抗争を意図的に放置していたからといわれている。

一揆と裁判を通して、ナチスはバイエルン州の地方政党からドイツ全国に影響を与える政党へと成長した。12月7日の総選挙で国家社会主義自由運動は14議席と惨敗したが、これはレンテンマルクの発行でインフレが落ち着いた事、ドーズ案の受入が決まり、情勢がやや落ち着きを取り戻したことも一因とされる。

ヒトラー保釈後の1925年には州法相フランツ・ギュルトナーの支援もあり、ナチスは再結党を許可された。2月26日、ナチスはビュルガーブロイケラーで党新結成集会と銘打った集会を開催した。この集会には4000人の観衆が集まり、予想以上の影響力に驚いたバイエルン州政府は今後2年間ヒトラーの講演を禁止している。
その後1923年11月9日記念メダル

ナチスが政権を握ると、ミュンヘン一揆は党にとっての記念碑的な出来事になり、ヒトラーは毎年11月9日に、フェルトヘルンハレにおいて追悼式典を、ビュルガーブロイケラーで演説を行った[27]。また、一揆で死亡した党員13名は殉教者として讃えられ、ナチス本部「褐色館」の壁には彼らの名が刻まれた。銃撃戦で血に染まった軍旗は「血染めの党旗(Blutfahne)」として、ナチスの神器となった。1934年にはミュンヘン一揆を記念して、「血の勲章」(旧称1923年11月9日記念メダル)が制定された。このメダルはナチス・ドイツ時代において最も栄誉ある勲章の一つとなった。

また、ヒトラーはこの時のカールの「背信」を忘れず、11年後の1934年6月30日に発生した「長いナイフの夜」においてカールは親衛隊によって惨殺された。
日本における反応

この一揆は世界中で広く報道されたが、あまり関心を呼ばなかった。日本の合同通信が配信した内容は「ヴァヴァリア(バイエルンの英語読み、正しくはバヴァリア)軍」が「復辟派」が籠城した陸軍省を襲撃し、ルーデンドルフ将軍並びに「復辟派首領ヒットレル」を逮捕したというもので、誤りが多いものであった。その後、裁判の様子が報道されるにつれ、ヒトラーの日本語表記は「ヒットラー」や「ヒットラア」に統一されていくことになる。
斎藤茂吉

当時ミュンヘン大学精神病学教室に留学中であった歌人斎藤茂吉は、一揆直前と事件後の騒然としたミュンヘン市内の有様を描いた歌を詠んでいる。帰国後には当時を回想して『ヒットレル事件』(1935年)という随筆を執筆した。
事件前


一隊は H a k e n k r e u z の赤旗を立てつついきぬこの川上に

行進の歌ごゑきこゆ H i t l e r の演説すでに果てたるころか

事件後


をりをりに群衆のこゑか遠ひびき戒厳令の街はくらしも

おもおもとさ霧こめたる街にして遠くきこゆる鬨のもろごゑ

(いずれも歌集「遍歴」1923年 より)
登場作品

北杜夫 「楡家の人びと

鋼の錬金術師 シャンバラを征く者

イングマール・ベルイマン 「蛇の卵」(1977)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 当時南ドイツに於いてビアホールはほとんどの町に存在し、何百あるいは何千もの人々が集い、酒を飲み、歌を歌い、さらに政治集会が開催されていた。
^ この銃撃を行った者は明らかになっていないが、武装警察の将校が行ったという説[17]、オーバーラント団指導者フリードリヒ・ウェーバーの「警官が突きつけたカービン銃を、デモ隊の旗手が旗で払いのけた際に暴発した」という証言などがある[18]
^ アメリカの特派員ロバート・マーフィは、ルーデンドルフが射撃時地面に伏せたと証言し、別の見物人も射撃後に立っているものはいなかったと証言している[19]

出典^ 村瀬、ナチズム、152p
^ 村瀬、ナチズム、116p
^ 村瀬、ナチズム、157p
^ 村瀬、ナチズム、121p
^ 村瀬、ナチズム、139p
^ 村瀬、ナチズム、142p
^ 村瀬、ナチズム、144p
^ 村瀬、ナチズム、148p
^ 村瀬、ナチズム、163-164p
^ 村瀬、ナチズム、153-157p
^ 『行動する異端: 秦豊吉と丸木砂土』森彰英、ティビーエスブリタニカ, 1998、p85
^ 村瀬、166-168p
^ 村瀬、168p
^ トーランド、325p
^ トーランド、329p
^ 村瀬、ナチズム、170p
^ ジョン・ウィーラー=ベネット『権力の応酬』
^ 村瀬、ナチズム、176p
^ トーランド、343p
^ 村瀬、ナチズム、179p
^ トーランド 354p
^ トーランド、352p
^ トーランド 373?374p


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