ヒトラーはシュタッフェル湖のほとりにあるナチス幹部エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に逃亡、彼の妻エルナ(ドイツ語版))がヒトラーの面倒を見ていた。2日後に警察が別荘に到着した。ヒトラーは絶望し、ピストルで自殺を図ろうとしたが、エルナが銃を取り上げ「あなた自身が死んでも、あなたを信じてついてきた者を見捨てるのか」と説得した。[21]この後、ヒトラーは落ち着きを取り戻し、ナチス幹部に対する今後の指導を託すメモを残した。これによると、運動の指導と機関紙の管理をアルフレート・ローゼンベルク、財政の管理をマックス・アマンに託すものであった。まもなく警察に逮捕されたヒトラーは、政府や役人に対する批判を叫んでいた[22]。
このとき別働隊を率いていたグレゴール・シュトラッサーは部隊をまとめて撤退した。また、ハンフシュテングル、アマン、ヘルマン・エッサーらのナチス幹部もそれぞれに逃亡したが、ディートリヒ・エッカートなどは逮捕された。ルドルフ・ヘスは恩師カール・ハウスホーファーの元に逃れ、自首を勧められたが潜伏生活を行う事になる。エッカートは、病気が理由ですぐに釈放され、12月26日にベルヒテスガーデンでモルヒネ中毒による心臓発作で死去した。
この一連の騒動で19名(うち3名は警官)の犠牲者が出た。現在、ビュルガーブロイケラーの跡地には、ナチスによる最初の犠牲者として3人の警官の死を弔う銘版が置かれている。
裁判.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ミュンヘン一揆の裁判に関連するカテゴリがあります。裁判の被告達。左からハインツ・ペルネ(ドイツ語版)、フリードリヒ・ヴェーバー(ドイツ語版)、フリック、クリーベル、ルーデンドルフ、ヒトラー、ブリュックナー、レーム、ローベルト・ヴァグナー(ドイツ語版)(1924年4月1日、ハインリヒ・ホフマン撮影)
ヒトラーら一揆の指導者9人は拘留され、翌1924年2月26日、裁判が開かれた。ヒトラーは裁判で持ち前の雄弁を振るい、バイエルン州政府や中央政府を批判して正義は我にありと主張したが、裁判そのものに対する大衆や新聞の興味は薄かった。この裁判におけるヒトラーの名誉回復の原因はむしろカールらの不人気によるところが大きい。カールらはいったんはヒトラーと協力することを発表したものの、一揆が失敗しそうだと見るや否や態度を豹変させ、裁判でも自分たちに不利な発言が出ないように圧力を加えた。これらの首尾一貫しない態度などによってカールらはとにかく一揆の中心からは遠ざかって罪を免れたが、大衆に対する人気は急降下した。また、ルーデンドルフを一揆の中心として有罪にする事を、保守色が強い裁判官やカールたちは躊躇した。裁判中もルーテンドルフは一貫して責任を回避しつづけ、時としてその堂々とした態度や命令的な口調は裁判長を震え上がらせるほどであった[23]。このことがヒトラーをしてその代わりに一揆の中心人物とせしめることとなり[24]、英雄としてヒトラーの人気が急上昇することとなる。
4月1日の判決で、ルーデンドルフは無罪で、ヒトラーを含む4人が実刑となった。この判決には州法相フランツ・ギュルトナーの裏面からの支持があったとされる。判決直後、ヒトラーは日記に「卑しむべき偏狭と個人的怨恨の裁判は終わった。そして今日から我が闘争(mein Kampf)が始まる。」と書いた[25]。
ヒトラーは5年の城塞禁固刑(ドイツ語版)となり、ランツベルク・アム・レヒの要塞刑務所の7号室に収監される。獄中は快適で待遇は極めて良く、独房は日当たりのよい清潔な部屋、食事も上質で、差し入れや面会も自由であり、ナチス党員が身の回りの世話をした。主に面倒を見たのが、判決後に自首したヘスと運転手エミール・モーリスである。当初落ち込んで食事を取らなかったヒトラーは落ち着きを取り戻し、ハンフシュテングルらが差し入れたチェンバレン、ニーチェ、マルクス、ランケなどの大量の本を読み、自らのナチズム思想を固めていく。
後年、ヒトラーは側近に「ランツベルクは国費による我が大学であった。」と評している[26]。また、ヒトラーの著書『我が闘争』はこの時期に口述で執筆されたものである。この時期にヒトラーを励ましたのはエルナやスポンサーのヘレーネ・ベヒシュタイン(ドイツ語版)夫人(ピアノメーカーベヒシュタインの創業者一族)、チェコスロバキアのドイツ国民社会主義労働者党創設者ハンス・クニルシュ(ドイツ語版)、ヒトラーが失脚させたナチスの前議長アントン・ドレクスラーなどがいる。この生活でヒトラーの体重は85kgまで増加した。
州政府の中にはこの際ヒトラーを国外追放にせよとの意見もあったが、追放先と目されたオーストリア政府の拒否に会い、立ち消えになった。判決から半年後、ヒトラーは保護観察処分に減刑され、12月20日に仮出獄した。
カールとロッソウは訴追されることなくその地位を維持したが、すでに権威は失墜していた。1924年2月18日、両者はその地位を追われ、バイエルン州と政府の関係は正常化した。一方ベルリン政府では、左派政権のザクセン州と右派政権のバイエルン州に対する対応の違いに不満を持ったドイツ社会民主党が連立を離脱、シュトレーゼマンは11月23日に首相を辞任した。後継首相のヴィルヘルム・マルクス政権下で、ヴァイマル共和政は短い安定期を迎える事になる。 一揆が簡単に制圧された経験でヒトラーは武力革命に見切りをつけ、言論・演説・選挙といった民主的手段による政権奪取に軸足を移してゆく。ナチスには11月9日にバイエルン州、11月23日に全ドイツにおける禁止命令が下ったが、無罪になったルーデンドルフ、すぐに仮釈放されたレーム、逮捕を免れていたグレゴール・シュトラッサーらが「国家社会主義自由党」の名で偽装政党を立ち上げ、1924年5月4日の総選挙には32議席を獲得した。さらにドイツ人民自由党と合流して「国家社会主義自由運動」となった。ドイツ闘争連盟の軍事組織はレームがフロントリングの名で維持し、後にフロントバンとなった後に、再結成された突撃隊となる。しかしローゼンベルク派と北ドイツに勢力を持つシュトラッサー派、そしてハンフシュテングルやドレクスラーらの対立は激化し、完全な主導権を握るものは現れなかった。これは獄中のヒトラーが、自らの影響力を保持するため、党内の抗争を意図的に放置していたからといわれている。 一揆と裁判を通して、ナチスはバイエルン州の地方政党からドイツ全国に影響を与える政党へと成長した。12月7日の総選挙で国家社会主義自由運動は14議席と惨敗したが、これはレンテンマルクの発行でインフレが落ち着いた事、ドーズ案の受入が決まり、情勢がやや落ち着きを取り戻したことも一因とされる。 ヒトラー保釈後の1925年には州法相フランツ・ギュルトナーの支援もあり、ナチスは再結党を許可された。2月26日、ナチスはビュルガーブロイケラーで党新結成集会と銘打った集会を開催した。この集会には4000人の観衆が集まり、予想以上の影響力に驚いたバイエルン州政府は今後2年間ヒトラーの講演を禁止している。 ナチスが政権を握ると、ミュンヘン一揆は党にとっての記念碑的な出来事になり、ヒトラーは毎年11月9日に、フェルトヘルンハレにおいて追悼式典を、ビュルガーブロイケラーで演説を行った[27]。また、一揆で死亡した党員13名は殉教者として讃えられ、ナチス本部「褐色館」の壁には彼らの名が刻まれた。銃撃戦で血に染まった軍旗は「血染めの党旗
ナチスの方針転換と躍進
その後1923年11月9日記念メダル
また、ヒトラーはこの時のカールの「背信」を忘れず、11年後の1934年6月30日に発生した「長いナイフの夜」においてカールは親衛隊によって惨殺された。 この一揆は世界中で広く報道されたが、あまり関心を呼ばなかった。日本の合同通信が配信した内容は「ヴァヴァリア(バイエルンの英語読み、正しくはバヴァリア)軍」が「復辟派」が籠城した陸軍省を襲撃し、ルーデンドルフ将軍並びに「復辟派首領ヒットレル」を逮捕したというもので、誤りが多いものであった。その後、裁判の様子が報道されるにつれ、ヒトラーの日本語表記は「ヒットラー」や「ヒットラア」に統一されていくことになる。 当時ミュンヘン大学精神病学教室に留学中であった歌人斎藤茂吉は、一揆直前と事件後の騒然としたミュンヘン市内の有様を描いた歌を詠んでいる。
日本における反応
斎藤茂吉