ミュンヘン一揆
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そしてナチ党員が集結するのを防ぐ事、さらにカールの命令のみに従うように通達した[16]。ロッソウは午後10時45分に第19歩兵連隊本部に到着し、そこから国軍総司令官ゼークト上級大将に連絡し、叛徒鎮圧の命令を受領した。

午後11時、士官学校の生徒1千名がビアホールに到着し、カールの政庁を占領するために出発した。ヒトラーとルーデンドルフらは国防軍司令部に移動した。そこにいるはずのロッソウはおらず、指導者たちは不安になったが、ルーデンドルフは相変わらず三人を信頼していた。この時司令部にやってきた司令官参謀マックス・シュヴァントナー少佐は、第19歩兵連隊本部から電話室にかけられたロッソウの電話で反撃命令を受け取った。シュヴァントナーはミュンヘン市外の国防軍を列車移動で市内に送り込むように命令した。

カールの政庁を包囲した士官候補生たちは、カールと決定的に対立する事を恐れた指導者の命で撤退した。その後政庁を脱出したカールとザイサーもやがて第19歩兵連隊本部のロッソウのもとに合流した。翌日の深夜2時55分、三人の名で「反乱を認めず。銃を突き付けられて支持を強要されたにすぎない。これは無効である。もしこれを認めれば、バイエルンはおろか全ドイツが破滅する。」との声明がラジオ放送で布告された。同時に州政府のレーゲンスブルクへの移転と、ナチスの解党命令も発令した。

軍と警察ははっきりと反乱鎮圧に転じ、州警察本部を制圧しようとしたドイツ闘争連盟幹部ハインツ・ペルネ(ドイツ語版)は捕らえられた。市内には反乱支持の群衆があふれていたが、午前10時、国防軍は市内要所に機銃を設置し、レームらが立てこもる軍司令部はすでに包囲されていた。
終息1923年11月9日のオデオン広場

一揆の首謀者たちがカールたちの裏切りを知ったのは11月9日午前5時になってからだった。彼らはカール達が敵に回った事態を想定していなかった。ヒトラーたちは一時ビュルガーブロイケラーに戻り、司令部はレームに託された。昼頃まで議論が続き、クリーベルがオーストリア国境のローゼンハイムへの撤退を提案したが却下され、ルーデンドルフの発案で、レームが包囲されているバイエルン軍司令部へのデモ行進を行う事が決まった。

午前11時30分に行進が始まったが、このときデモ隊はほとんど丸腰であった。武装している者にも「実弾を抜き取っておけ」という命令が出ていた。ルーデンドルフを前面に立てれば軍や警察も手出しができまいと高をくくっていたが、オデオン広場フェルトヘルンハレ(将軍廟)近くには武装警察と国防軍がピケラインを張っていた。12時30分頃、昼過ぎにデモ隊がフェルトヘルンハレ前にさしかかったとき、一発の銃声が響いた[注釈 2]。この銃撃で一人の軍曹が死亡し、その直後に警官隊はデモ部隊に対する一斉射撃を行った。後方の国防軍装甲車も空に向けて威嚇射撃を行った。

ヒトラーへの銃弾は党員ウルリヒ・グラーフが身を挺して防いだが、ヒトラーと肩を組んでいたショイブナー=リヒターが銃撃で即死、ヒトラーは倒れかかってきた彼にひきずられて前にのめり、左肩を脱臼した。ルーデンドルフは行進を止めずに[注釈 3]銃火の中を警官隊の隊列まで進み、逮捕された。

ゲーリングは足を負傷したが居合わせたユダヤ人の女性に助けられ、オーストリアに亡命した。午後2時ごろ、レームもバイエルン軍管区司令部で降伏し、占拠部隊は武装解除された上で撤退を許可された。当時23歳のハインリヒ・ヒムラーもその中に入っていた。部隊が死者の遺体を遺族の元に運んだあと、レームをはじめとする指導者だけが逮捕された[20]

ヒトラーはシュタッフェル湖のほとりにあるナチス幹部エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に逃亡、彼の妻エルナ(ドイツ語版))がヒトラーの面倒を見ていた。2日後に警察が別荘に到着した。ヒトラーは絶望し、ピストルで自殺を図ろうとしたが、エルナが銃を取り上げ「あなた自身が死んでも、あなたを信じてついてきた者を見捨てるのか」と説得した。[21]この後、ヒトラーは落ち着きを取り戻し、ナチス幹部に対する今後の指導を託すメモを残した。これによると、運動の指導と機関紙の管理をアルフレート・ローゼンベルク、財政の管理をマックス・アマンに託すものであった。まもなく警察に逮捕されたヒトラーは、政府や役人に対する批判を叫んでいた[22]

このとき別働隊を率いていたグレゴール・シュトラッサーは部隊をまとめて撤退した。また、ハンフシュテングル、アマン、ヘルマン・エッサーらのナチス幹部もそれぞれに逃亡したが、ディートリヒ・エッカートなどは逮捕された。ルドルフ・ヘスは恩師カール・ハウスホーファーの元に逃れ、自首を勧められたが潜伏生活を行う事になる。エッカートは、病気が理由ですぐに釈放され、12月26日にベルヒテスガーデンモルヒネ中毒による心臓発作で死去した。

この一連の騒動で19名(うち3名は警官)の犠牲者が出た。現在、ビュルガーブロイケラーの跡地には、ナチスによる最初の犠牲者として3人の警官の死を弔う銘版が置かれている。
裁判.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ミュンヘン一揆の裁判に関連するカテゴリがあります。裁判の被告達。左からハインツ・ペルネ(ドイツ語版)、フリードリヒ・ヴェーバー(ドイツ語版)、フリッククリーベルルーデンドルフ、ヒトラー、ブリュックナーレーム、ローベルト・ヴァグナー(ドイツ語版)(1924年4月1日、ハインリヒ・ホフマン撮影)

ヒトラーら一揆の指導者9人は拘留され、翌1924年2月26日、裁判が開かれた。ヒトラーは裁判で持ち前の雄弁を振るい、バイエルン州政府や中央政府を批判して正義は我にありと主張したが、裁判そのものに対する大衆や新聞の興味は薄かった。この裁判におけるヒトラーの名誉回復の原因はむしろカールらの不人気によるところが大きい。カールらはいったんはヒトラーと協力することを発表したものの、一揆が失敗しそうだと見るや否や態度を豹変させ、裁判でも自分たちに不利な発言が出ないように圧力を加えた。これらの首尾一貫しない態度などによってカールらはとにかく一揆の中心からは遠ざかって罪を免れたが、大衆に対する人気は急降下した。また、ルーデンドルフを一揆の中心として有罪にする事を、保守色が強い裁判官やカールたちは躊躇した。裁判中もルーテンドルフは一貫して責任を回避しつづけ、時としてその堂々とした態度や命令的な口調は裁判長を震え上がらせるほどであった[23]。このことがヒトラーをしてその代わりに一揆の中心人物とせしめることとなり[24]、英雄としてヒトラーの人気が急上昇することとなる。

4月1日の判決で、ルーデンドルフは無罪で、ヒトラーを含む4人が実刑となった。この判決には州法相フランツ・ギュルトナーの裏面からの支持があったとされる。判決直後、ヒトラーは日記に「卑しむべき偏狭と個人的怨恨の裁判は終わった。そして今日から我が闘争(mein Kampf)が始まる。」と書いた[25]

ヒトラーは5年の城塞禁固刑(ドイツ語版)となり、ランツベルク・アム・レヒ要塞刑務所の7号室に収監される。獄中は快適で待遇は極めて良く、独房は日当たりのよい清潔な部屋、食事も上質で、差し入れや面会も自由であり、ナチス党員が身の回りの世話をした。主に面倒を見たのが、判決後に自首したヘスと運転手エミール・モーリスである。当初落ち込んで食事を取らなかったヒトラーは落ち着きを取り戻し、ハンフシュテングルらが差し入れたチェンバレン、ニーチェ、マルクス、ランケなどの大量の本を読み、自らのナチズム思想を固めていく。

後年、ヒトラーは側近に「ランツベルクは国費による我が大学であった。」と評している[26]。また、ヒトラーの著書『我が闘争』はこの時期に口述で執筆されたものである。この時期にヒトラーを励ましたのはエルナやスポンサーのヘレーネ・ベヒシュタイン(ドイツ語版)夫人(ピアノメーカーベヒシュタインの創業者一族)、チェコスロバキアドイツ国民社会主義労働者党創設者ハンス・クニルシュ(ドイツ語版)、ヒトラーが失脚させたナチスの前議長アントン・ドレクスラーなどがいる。この生活でヒトラーの体重は85kgまで増加した。

州政府の中にはこの際ヒトラーを国外追放にせよとの意見もあったが、追放先と目されたオーストリア政府の拒否に会い、立ち消えになった。判決から半年後、ヒトラーは保護観察処分に減刑され、12月20日に仮出獄した。

カールとロッソウは訴追されることなくその地位を維持したが、すでに権威は失墜していた。1924年2月18日、両者はその地位を追われ、バイエルン州と政府の関係は正常化した。一方ベルリン政府では、左派政権のザクセン州と右派政権のバイエルン州に対する対応の違いに不満を持ったドイツ社会民主党が連立を離脱、シュトレーゼマンは11月23日に首相を辞任した。後継首相のヴィルヘルム・マルクス政権下で、ヴァイマル共和政は短い安定期を迎える事になる。


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